スマトラ沖地震・津波から26日で2年経った。インドネシアのアチェだけ
で12万人の生命が失われた。この大災害のあと、僕は隣接する北スマ
トラのメダンに1週間滞在した。自衛隊の医療チームが現地に到着した
ころである。僕はジャカルタの英字紙が、自衛隊について"初めて人間
の顔をした軍隊”という見出しで報じているの見てがっくりきた。怒りさえ
感じた。
昭和17年日本軍がアチェに上陸した時は、藤原機関(F機関)と現地人
との提携で無血上陸している。戦時中アチェには近衛第二師団と海軍第
九根拠地隊が駐屯していたが、ほとんど住民との間にトラブルはなかった。
むしろ住民との関係は友好的だった。だからこそ、大災害の直後、陸海の
戦友会はいち早く義援金を募り、東京のインドネシア大使館に持参した。
残念ながらインドネシアの歴史教科書は、日本の軍政を”ファッショ”という
言葉でくくり、当時の日本軍を"野蛮””残酷”とプロトタイプで描いている。
そのために事実に反する"惨殺物語”まで横行する。上記英字紙もその影
響である。
現地からの報道では、復興事業は遅々として進んでいないそうだ。まだ6
万人が暫定被災住宅に住んでおり、基幹道路も半分も完成していないとい
う。災害後世界から届けられた善意の救援金は、効率よく使われていない
ようだ。例によって汚職の噂もある。日本政府も援助金を渡すだけでなく現
地の間違った報道には抗議すべきである。日本的にいえば感謝の気持ちが
なければ、友情は長続きしない。
で12万人の生命が失われた。この大災害のあと、僕は隣接する北スマ
トラのメダンに1週間滞在した。自衛隊の医療チームが現地に到着した
ころである。僕はジャカルタの英字紙が、自衛隊について"初めて人間
の顔をした軍隊”という見出しで報じているの見てがっくりきた。怒りさえ
感じた。
昭和17年日本軍がアチェに上陸した時は、藤原機関(F機関)と現地人
との提携で無血上陸している。戦時中アチェには近衛第二師団と海軍第
九根拠地隊が駐屯していたが、ほとんど住民との間にトラブルはなかった。
むしろ住民との関係は友好的だった。だからこそ、大災害の直後、陸海の
戦友会はいち早く義援金を募り、東京のインドネシア大使館に持参した。
残念ながらインドネシアの歴史教科書は、日本の軍政を”ファッショ”という
言葉でくくり、当時の日本軍を"野蛮””残酷”とプロトタイプで描いている。
そのために事実に反する"惨殺物語”まで横行する。上記英字紙もその影
響である。
現地からの報道では、復興事業は遅々として進んでいないそうだ。まだ6
万人が暫定被災住宅に住んでおり、基幹道路も半分も完成していないとい
う。災害後世界から届けられた善意の救援金は、効率よく使われていない
ようだ。例によって汚職の噂もある。日本政府も援助金を渡すだけでなく現
地の間違った報道には抗議すべきである。日本的にいえば感謝の気持ちが
なければ、友情は長続きしない。