戦前、正月の家の中の遊びと言えば「小倉百人一首」だった。僕の耳には、まだ子ども
だった頃聞いたカルタ取りの読み手の声が残っている。が、幼かったためか遊びに参加
したことは少なかった。むしろカルタの絵札を使った”坊主めくり”のほうが想い出がある。
たしかニ、三人で絵札を裏返しにして交互にめくり「坊主」の絵札が出ると相手方の札を
受け取る。そして最後に札の数で勝負が決まるといものだった。
戦争末期の昭和19年の正月、政府の情報局は、この「小倉百人一首}に代わって「愛国
百人一首」を国民に推奨した。佐々木信綱、土屋文明、斉藤茂吉など当時の著名な12人
の歌人に依頼して万葉時代から幕末までの「愛国」の歌百首を選んだ。その狙いは「愛国」
を通じて国民の戦意を昂揚することにあった。
「あおによし奈良の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり」(小野老)もその一つだ。
残念ながら「愛国百人一首」は政府が鳴り物入りで宣伝した割には、国民の間には広まら
なかった。わが家では、僕の一人きりの姉が動員の過労と栄養失調から倒れ新年早々か
ら病床にあった。僕は毎日、姉の解熱用の氷一貫目(約4㌔)を近くの氷屋に買いに行くの
が日課だった。
翌20年の正月には東京はB-29機の空襲が本格化してきてカルタ取り遊びではなくなった。
1月4日から中学2年だった僕らにも勤労動員がくだり、軍需工場へ働きに出た。多分「愛国
百人一首」で遊んだ日本人は、ほとんどおらず、その名前さえ知らないのではないだろうか。
戦後「愛国」は”悪”という変な風潮で「愛国百人一首」は陽の目をみることがないが、味あ
いのある歌が多い。
だった頃聞いたカルタ取りの読み手の声が残っている。が、幼かったためか遊びに参加
したことは少なかった。むしろカルタの絵札を使った”坊主めくり”のほうが想い出がある。
たしかニ、三人で絵札を裏返しにして交互にめくり「坊主」の絵札が出ると相手方の札を
受け取る。そして最後に札の数で勝負が決まるといものだった。
戦争末期の昭和19年の正月、政府の情報局は、この「小倉百人一首}に代わって「愛国
百人一首」を国民に推奨した。佐々木信綱、土屋文明、斉藤茂吉など当時の著名な12人
の歌人に依頼して万葉時代から幕末までの「愛国」の歌百首を選んだ。その狙いは「愛国」
を通じて国民の戦意を昂揚することにあった。
「あおによし奈良の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり」(小野老)もその一つだ。
残念ながら「愛国百人一首」は政府が鳴り物入りで宣伝した割には、国民の間には広まら
なかった。わが家では、僕の一人きりの姉が動員の過労と栄養失調から倒れ新年早々か
ら病床にあった。僕は毎日、姉の解熱用の氷一貫目(約4㌔)を近くの氷屋に買いに行くの
が日課だった。
翌20年の正月には東京はB-29機の空襲が本格化してきてカルタ取り遊びではなくなった。
1月4日から中学2年だった僕らにも勤労動員がくだり、軍需工場へ働きに出た。多分「愛国
百人一首」で遊んだ日本人は、ほとんどおらず、その名前さえ知らないのではないだろうか。
戦後「愛国」は”悪”という変な風潮で「愛国百人一首」は陽の目をみることがないが、味あ
いのある歌が多い。