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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         「どんと焼き」と「どんどん焼き」

2010-01-12 06:49:24 | Weblog
テレビの番組で新潟県十日町の古くから伝わる壮大な「どんと焼き」の風景をみた。
「どんと焼き」は一般には小正月(1月15日)に飾ってあった正月のお供えや門松を
神社に持参しお焚きして貰う行事である。所によっては「左義長」とか「とり正月」と
呼び名が違う。東京では江戸時代「どんと焼き」が火元で大火になったことがあり、
鳥越神社以外あまり盛んには行われていない。

わが家では、毎年小正月には小さな松飾りを近くの神社へ持参し、お賽銭をあげて
お焚きして貰うが、年によっては忘れることがあり、その時には庭の隅で乾かしてか
らたい肥として使う。しかし、最近都会では庭のある家が少なく、一般ゴミとして出し
ている家が多い。古い感覚ではバチ当たりだが、今は仕方がない。

戦前、子どもだった頃、僕は「どんと焼き」と「どんどん焼き」とがごっちゃになっていた。
「どんどん焼き」とは、大正から昭和の10年代、東京の下町の駄菓子屋で子ども相手に
あったお好み焼きである。池波正太郎の「食卓の風景」の中にも”「どんどん焼き」は下
町の人間にとってこれほど郷愁をそそるものはない”と紹介されている。

戦前、東京の下町の駄菓子屋には店の隅に鉄板焼を置いたコーナーがあり、こどもたち
はここで「どんどん焼き」を食べながら遊んでいた。一銭かニ銭を払うと、おばさんがアルミ
の容器に練った小麦粉に注文の具をいれて運んできた。これを自分で焼くのが楽しみだ
った。具は赤い干しエビとかイカのげそ、時には甘いアンもあった。

戦争から戦後の食糧難で、今では東京の町から「どんどん焼き」は姿を消し、その名
前さえ知らない人が多くなった。第一、駄菓子屋がなくなった。東京では「もんじゃ焼き」が
今や有名だが、池波正太郎の本には出てこないし、僕も戦前名前もきいたことがない。した
がって郷愁もない。