「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「源来軒」のラーメン考

2014-08-09 05:49:27 | Weblog
敗戦の年の亡父の日記を調べていたら、あの連日の空襲下、食料難の時代なのに”呑兵衛”の亡父は、ほとんど毎日のように勤務先(東京・虎ノ門)近くの「源来軒」でビールを飲んでいる。当時、東京では「国民酒場」制度があり、指定された飲食店は夕刻、一定の量のビールやウィスキー、焼酎などをお客に提供していたようだ。亡父はその情報を求めて時には渋谷の「ミューヘン」にまで遠征したが”抽選”ではずれ、すごすごと帰宅することもあった。

「源来軒」は名前から中華料理店だが、肝心の料理は提供していなかったようだ。僕は「源来軒」の名前をどこかで聞いたことがあるみたいなので改めて調べてみたら、その昔昭和45年頃、郡山のテレビ局勤務時、何回か出張した喜多方駅前の中華料理店を想い出した。当時、喜多方は”ラーメンの街”と知られる前で市内にはラーメン店はほとんどなかった。しかし「源来軒」のラーメンは抜群に美味かった。半世紀近く経っても、まだその名前を憶えているほど美味であった。

「源来軒」の名前は喜多方だけでなく全国各地にある。遠い記憶だが60年前、神田方面の警察署周りをしていた駆け出し記者時代食べた神保町のラーメン屋も「源来軒」だったのを想い出した。改めて、ネットで,この神田「源来軒」を調べてみると、明治大正時代、神保町界隈が中国からの留学生で賑わって時代からの老舗のようだった。その頃、神保町の今の「すずらん通り」や「さくら通り」には留学生相手の中国料理店があり、今でもその名残が若干残っている。

神保町と中国との関係の歴史は、その老舗の一つ「新世界飯店」の傳健児社長のHP「Kandaアーカイビ」に詳しいが、当時の神保町界隈には孫文や周恩来など歴史上の人物も足跡をのこしている。神田の「源来軒」はつい最近まで開店、通の間で知られていたが、最近閉店したようで残念だが、その流れを組む「源来酒家」がある。喜多方の「源来軒」はHPによると、当主の祖父が大正時代に開店したようである。なぜ喜多方に来たのか、なぜ「源来軒」と命名したのかは不明である。一中華料理店の名前だけでも色々歴史があるものだ。