「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

電休日 自宅防空壕で”玉音”を聞いた日

2014-08-15 05:05:43 | Weblog
69回目の終戦記念日である。昭和20年8月15日正午、僕は母親と一緒に家の前に掘られた、ちゃちな防空壕で、天皇陛下の敗戦を告げる”玉音”放送をを聞いた。この日は木曜日だったが、僕は勤労動員先の軍需工場が電休日のため家にいた。戦争末期、電力不足から、日曜日以外に平日もう一日休みの工場が多かった。暑い日だったが、朝9時半から東京では警戒警報が発令されていたため、僕らは防空壕で”玉音”を聞いた。

わが家は、亡父が当時大東亜省関係の協会で仕事していた関係で、敗戦は既に11日の時点で”不快”なニュースとして知っていた。そのため僕個人は敗戦を知っても驚かず、悲しまず、漠然と”これで明日から工場へ行かずに済む”と思った。しかし、亡父はこの日の日記にに次のように書いている「記憶せよ!この日を!5時半起床、神仏に月例祈願したあと、近所の氷川神社に参拝、ラジオで本日正午より、畏くも天皇陛下御自ら勅語御放送ある旨発表あり恐懼に耐えず、9時半出勤、正午より勅語拝聴式あり、一同最敬礼裡に朗々たる玉音に接し、粛然襟を正し嗚咽各所にに起きる、感無量なり」

玉音は各人それぞれ受け取り方が違っていたようだ。クラスメートで、国鉄(JR)に動員されていた友人の一人は玉音を大宮機関区で聞いたがその時のの模様を、同窓会誌に次のように書いている「直ぐには日本が負けたという感覚にはならなかったが、暫くして日本が負けたのだと理解した。当時居合わせた仲間たちで仕方がないから中国へでも行って馬賊にでもなろうと話し合った」

天皇陛下のお声を一般国民が聞いたのは玉音放送が初めてである。新聞に陛下の写真が掲載されると、神棚に奉戴した時代であった。あれから69年経過し、あの日と同じ暑さの中で戦没者慰霊式典での天皇陛下の御挨拶をテレビで聞いた。感無量なものがある。