「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

敗戦直後進駐軍の性の防波堤 RAA

2014-08-20 05:24:02 | Weblog
昭和20年8月15日の敗戦の日から最初の公休日(日曜)であるの亡父の19日の日記はこう書いてある。「外見的にはまだ世相に変化はないが、自分の気分には相当違ったものがある。すでに防空頭巾と巻きゲートルは廃止して防空態勢から再起建設への第一歩のつもりである。街頭人の服装も国防色は次第に減りつつある。ただ困った困るのは無知市民のつまらぬデマ流布である」。僕はまだ子供(中学3年)だったが、遠い記憶の中に”進駐軍がやってくると、男は奴隷にされ、若い女は強姦される”といった類の話が巷に流れていたのを覚えている。

この日、発足したばかりの内閣の東久爾稔彦首相は昭和天皇に召され”街を明るく娯楽を復興せよ”といったお言葉を頂き、国の再建復興に向かってリセット態勢に入った。しかし、後年知ったのだが、内務省は早くも18日、進駐軍の進駐に備え。各県知事警察に対して、日本の女性を進駐軍の性暴力から守るよう対策を指示、26日には、内務省令で「特殊慰安施設」RAA(Recreation and Amusement Association)を作るよう命令している。東京では28日、大森海岸の料亭「小町園」が第一位号店に指定された。

RAAは全国各地に設けられ、従業員は新聞広告を通じて一般から募集され、21年廃止になるまで進駐軍向け慰安所として存在した。従業員は主として戦前の公娼が多かったが、広告の意味が解らず応募して自殺した女性もあった。その数は全国で5万人といわれ、進駐軍の性暴力からの”防波堤”だったといわれているが、それにも拘わらず、進駐軍の性犯罪は多く、各地で被害が出ていたが、占領下のため新聞には掲載されず、一般には知られなかった。

亡父は日記で”デマ”と簡単に片づけていたが、庶民は政府のRAA設置の動きをキャッチしていたのであろう。戦争が終わって1か月足らずでRAAが発足していたのを改めて知り、戦争と性の問題を考えさせられた。