「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

南京攻略戦の戦果と市民虐殺

2014-12-10 05:37:21 | Weblog
77年前の南京陥落(昭和12年12月13日)前後にあったとされる市民虐殺について、中国の民間団体が北京の日本大使館に対して、犠牲者への謝罪と補償を求める書簡を送ってきたという。一方、毎年、南京市主催で行われている慰霊祭に今年は習近平.国家主席が式典に参加するのではないかという観測がある。

遠い記憶の中で、僕には南京陥落を祝って東京で催された旗行列がある、当時小学校1年生であったが、日の丸の小旗を振り振り軍歌を歌って学校から駅前まで行進した。夜には大人たちが提灯を持ち、万歳、万歳を連呼して長い列になり、町中が祝賀一色であった。子供などで、よく解らなかったが、当時、わが国にとって、南京を巡る戦闘は国民的な関心事であった。それだけに陥落に対する喜びは大きかった。

いわゆる”南京虐殺”が国際的に問題化されてきたのは、不思議なことに戦争が終わって30年近く経ってからである。戦後の東京国際戦犯裁判で、検察側から”南京虐殺”が明らかにされたが、一般の日本人は、それほど問題にはしなかった。それが日中平和条約に関する共同声明が出た1972年頃から虐殺が急に問題化され、エスカレートされていった。朝日新聞に本多勝一記者が、中国各地の日本軍の”虐殺”に主点を置いた「中国の旅」を連載したのはこの時代である。

日本軍が30万人も南京市民を虐殺したという中国の主張は”白髪三千丈”であり頭から信じていないが、当時日本軍が発表した南京攻略戦の戦果によると、南京攻略戦に参加した中国軍は8万人から13万人、うち戦死者2万9千人、捕虜しゃ断1万6千人というのがある。(日本側死傷者6170人)
戦果は一般に自国に有利なように発表するものだが、双方に沢山の犠牲者を出した戦闘であったのは事実であった。小学生であった僕でも、日本軍が手こずったといわれる「便衣兵」という言葉を知っていた。現地にある南京記念博物館は1980年代に建てられたもので、展示物の中には史実と異なるものがあるという。将来にむかっての戦術的互恵関係を望むなら、”虐殺”について両国で再調査し、中国側は一方的な宣伝は止めるべきである。