今日はクリスマスである。といってもキリスト教徒ではないわが家は特別な行事をするわけではない。子供も孫まで成長して家にクリスマス.ツリーを飾ることもないし、七面鳥料理を用意するわけでもない。老夫婦二人だけで、いつものように、ささやかな夕食をするだけだ。
僕が青春真っ盛りだった昭和20年代後半から30年前半までの東京のクリスマス.イブは異常な風景であった。駆け出しのサラリーマンだった僕でさえ安月給をはたいて事前に買ったパーティ券をもって盛り場のバーやキャバレーを梯子して歩いた。サンタのような三角帽子をかぶり、だてメガネをかけた酔客が街に一杯だった。そして手には家族への飲んだ贖罪なのかケーキの箱をぶらさげていた。
記録を見ると、壽屋(サントリー)が「洋酒天国」という宣伝雑誌を出したのは昭和31年で、同じころ都会では、安いトリスウィスキーを水割りやソーダで割ったハイボールをのませる”トリスバー”が出現、賑わっていた。戦争直後の密造酒まがいの”カストリ”焼酎から西欧の匂いのするウィスキーへと転換期であった。クリスマス.イブのランチキ騒ぎもその延長線であった。
当時、僕らサラリマンの間ではいつになったら、所得が欧米並みの1000ドル(当時の為替相場で3万6千円)になるかと話題になっていた、高度成長期前の貧しい時代であった。街頭テレビの力道山のプロレスに群衆が集まっていた頃だ。生活に疲れたサラリーマンは、ただただ安酒に救いを求めていたのかもしれない。しかし、昭和30年代も半ばをすぎると、所得倍増政策の効果か、庶民の生活も豊かになり、サラリーマンも家庭でイブを楽しむようになりランチキ騒ぎもなくなった。所得1000ドルを越えたのも、このころではなかっただろうか。
僕が青春真っ盛りだった昭和20年代後半から30年前半までの東京のクリスマス.イブは異常な風景であった。駆け出しのサラリーマンだった僕でさえ安月給をはたいて事前に買ったパーティ券をもって盛り場のバーやキャバレーを梯子して歩いた。サンタのような三角帽子をかぶり、だてメガネをかけた酔客が街に一杯だった。そして手には家族への飲んだ贖罪なのかケーキの箱をぶらさげていた。
記録を見ると、壽屋(サントリー)が「洋酒天国」という宣伝雑誌を出したのは昭和31年で、同じころ都会では、安いトリスウィスキーを水割りやソーダで割ったハイボールをのませる”トリスバー”が出現、賑わっていた。戦争直後の密造酒まがいの”カストリ”焼酎から西欧の匂いのするウィスキーへと転換期であった。クリスマス.イブのランチキ騒ぎもその延長線であった。
当時、僕らサラリマンの間ではいつになったら、所得が欧米並みの1000ドル(当時の為替相場で3万6千円)になるかと話題になっていた、高度成長期前の貧しい時代であった。街頭テレビの力道山のプロレスに群衆が集まっていた頃だ。生活に疲れたサラリーマンは、ただただ安酒に救いを求めていたのかもしれない。しかし、昭和30年代も半ばをすぎると、所得倍増政策の効果か、庶民の生活も豊かになり、サラリーマンも家庭でイブを楽しむようになりランチキ騒ぎもなくなった。所得1000ドルを越えたのも、このころではなかっただろうか。