「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

知られざるインドネシア独立の英雄「黒岩通」隊長

2015-04-04 06:08:57 | Weblog
東京の芝山内の古刹、青松寺の境内にインドネシア初代大統領スカルノの揮毫による”独立は一民族のものならず全人類のものなり”と記した二人の日本人、市來竜夫、吉住留五郎に対する顕彰碑がある。二人は敗戦後もインドネシアに留まり、ジャワ島でのインドネシア独立戦争に参加”インドネシア永遠の礎石”となられた方だ。お二人と同じように、戦後インドネシアに残留、独立戦争に参加した日本人は各地で千人近くいるといわれている。

先日戦時中スマトラ.アチェの義勇軍教官だった後安克己さん(94)から頂戴した戦友会「阿智恵会」の会報にも、その一人「黒岩通」氏の事が紹介されている。「黒岩通」とカッコで囲んだのは本名が判らないからだが、実在の人物で、戦後インドネシアに残留した軍人、軍属の集まり「福祉友の会」の編纂した会報にも「黒岩通」氏らしき名前は出てくる。しかし、日本にある資料は、「黒岩通」氏が、アチェ軍政監部の警部だった人物で、戦後アチェの山中に立て篭もり、アチェ人に対して徹底抗戦を呼びかけ軍事訓練を指揮した程度のことぐらいしか判らない。

ところが、後安氏に頂いた資料に触発されて、改めてわが家の”積んどくだけだった”インドネシア語の本二冊を読んでみると、「黒岩通」の写真まで載っており、彼が昭和22年の和蘭による”第一次警察行動”の際には、インドネシア軍の蔭の参謀としてメダン攻防戦で活躍したと記述されており、著者が戦後の昭和39年、東京で「黒岩通」と再会までしている。しかし、「福祉友の会」の名簿には「黒岩正吾」クチュアリと「黒岩通」氏らしき名前が載っていうだけで、いつ日本へ帰国したのかも判らない。「阿智恵会」の名簿にも載っていない。