自分の調査不足をさらけ出すようで恥ずかしいが、先日「大東亜戦争とマレー、昭南、英領ボルンオ、虐殺の真相」(朱鳥社)を出版した後、資料を整理しなおしていたら、シンガポール作戦に第五軍給水部隊の一員として参加していたIさん(101)がある雑誌に書いた「朝日新聞の”シンガポール住民虐殺の体験を語る”記事に異議あり」という記事が出てきた。
朝日新聞の平成5年(1993年)8月14日付け首都圏版社会面トップ記事で紹介されている住民の体験談はあり得ないというのである。朝日の記事によると、”虐殺”のあった昭和17年2月14日、当時8歳の少年であった、この住民は最大の激戦地であったブキティマ高地の防空壕に家族と一緒に退避していたところ、トラック3台に乗った日本の兵隊がやってきて住民を虐殺、自分は遺体の下に隠れていて、かろうじて助かった”というのが大筋である。
”虐殺”があったとされる2月14日、Iさんは、ブキテイマの華僑中学の前線本部にいたが、連合軍との戦闘は最大にヤマ場にきており、すでに住民は戦闘を避けて避難、Iさんは住民の姿は一人も見かけなかったという。14日といえば、戦闘が終わる2日前である。改めて僕は自分の書いた本の中の、ブキティマ攻略戦を読み直したが、Iさんの言う通り、一般住民がそこにおられる状況ではなかった。
Iさんは、もちろん占領直後に”粛清”の名の下で行われた虐殺は、大東亜戦争の汚点だとし、犠牲になられた方々に深い哀悼の意を示されている。そして、シンガポールの友人からの”許しても、忘れることはできない”という言葉を紹介している。しかし”反日報道を執拗に続ける朝日の自虐思想は許せないと言うのである。22年も前の朝日の記事である。
朝日新聞の平成5年(1993年)8月14日付け首都圏版社会面トップ記事で紹介されている住民の体験談はあり得ないというのである。朝日の記事によると、”虐殺”のあった昭和17年2月14日、当時8歳の少年であった、この住民は最大の激戦地であったブキティマ高地の防空壕に家族と一緒に退避していたところ、トラック3台に乗った日本の兵隊がやってきて住民を虐殺、自分は遺体の下に隠れていて、かろうじて助かった”というのが大筋である。
”虐殺”があったとされる2月14日、Iさんは、ブキテイマの華僑中学の前線本部にいたが、連合軍との戦闘は最大にヤマ場にきており、すでに住民は戦闘を避けて避難、Iさんは住民の姿は一人も見かけなかったという。14日といえば、戦闘が終わる2日前である。改めて僕は自分の書いた本の中の、ブキティマ攻略戦を読み直したが、Iさんの言う通り、一般住民がそこにおられる状況ではなかった。
Iさんは、もちろん占領直後に”粛清”の名の下で行われた虐殺は、大東亜戦争の汚点だとし、犠牲になられた方々に深い哀悼の意を示されている。そして、シンガポールの友人からの”許しても、忘れることはできない”という言葉を紹介している。しかし”反日報道を執拗に続ける朝日の自虐思想は許せないと言うのである。22年も前の朝日の記事である。