「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

空襲の焼跡で”焼きゴメ”を食べあった友人の死

2015-04-14 05:32:52 | Weblog
67年前に卒業した母校(旧制中学)から同窓会報が届いた。僕らの卒業時には東大へ一人しか入学しなかったのに、今年は現役で17人も合格している。すっかり進学校に様変わりした母校である。出来の悪かった先輩の一人だが、素直に誇りにし、喜んでよいのだろう。その一方”お悔み申し上げます”の欄に、戦中戦後の時代に苦労を共にした仲間の訃報が多くなってきたのは悲しい。

C君の名前も載っていた。彼の訃報を聞いて想い出すのは、戦争中の勤労動員時のことばかりだ。ちょうど70年前の今頃、僕らが動員されていた六郷(東京の蒲田区=当時)の軍需工場が空襲で焼けた。僕と家が近かったC君は、翌朝5キロの道を歩いて工場へ駆けつけたが、全焼で子供たちには、なすべもなかった。僕らは工場の食堂があった場所へ行き、”焼きごめ”を集め、口にしたのを覚えている。とても食べられるものではなかったが、空腹の一時の足しにはなった。

想い出の舞台は一転して千葉県の利根川運河の江戸川河口。工場が焼けた後、僕らは家を離れ、ここで敵の上陸に備えて運河の浚渫工事に従事していたが、食べ盛りの僕らは毎日空腹で苦しんだ。運河の名も知れない魚を釣って食べたり、木の上にたむろしていた蛇を捕まえ焼いて食べたりしたが、いつもその場面にはC君がいた。

数年前、動員時を偲んで当時のクラスだけで会を開いた。かっての軍需工場跡へ行き、その後一緒に飲んだが酒豪が多い。戦中戦後の食糧難時代を体験したためなのだろうか。C君もそうで、この会の後、体調を壊したと聞いている。同じ酒飲みであった僕も、やはり入院を重ね今では、酒を慎んでいる。加齢と共に、人間自然にそうなるのであろうか。合掌。