「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

赤い花なら曼珠沙華 幸せだったじゃがたらお春

2017-09-21 06:03:04 | 2012・1・1

季節の移り変わりは正直だ。彼岸の入りの昨日、近くの遊歩道を散歩していたら曼珠沙華(彼岸花)が赤い花(写真)を咲かせていた。毎年の事だが、この花を見ると、僕は戦争中、流行した「長崎物語」の歌を想い出す。
♯ 「長崎物語」(作詞梅木三郎 作曲佐々木俊一 昭和13年)
  赤い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る 濡れて泣いていたじゃがたらお春
  みれんな出船か ああ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る

戦争中まだ小学生で、軍歌全盛時代だったのに何故、僕がこの歌を今も覚えているのかわからないが、子供心にも德川幕府の鎖国令によって幼い少女が、家族から引き離されて。遠い異国に連れて行かれるのに同情したのかもしれない。また、当時の時代背景として、国民の目が南方地域に向けれていたことがあったかもしれない。


縁があって、戦後の昭和41年、僕は1年間余、じゃがたらお春が流された地、バタビア(現在のジャカルタ)に住むことになった。お春の時代からは400年近く経ち、当時の面影はほとんどなかったが、戦前、日本の領事館があった裏庭には、お春時代の日本人の一人、宗兵衛の墓があったという話は、まだ伝っていた。

10年ほど前だが、僕は、その宗兵衛とお春との関係について書いた「じゃがたらお春の消息」(白石広子著 勉強出版 平成13年)を読んんだ。過去の資料を駆使して書いた貴重な本だが、じゃがたらお春は、日本人一般が抱いている”オランダ屋敷に降る雨に濡れて”祖国恋しや”と泣いていた少女ではなく、実際は現地で、やはり平戸にいたことがあるオランダ人と結婚、裕福な幸せな生活を送っていた。でも、話としてはやはり、”赤い曼珠沙華”のお春なのである。