あの夜からもう75年である。昭和20年(1945年)3月10日、東京下町の空が真っ赤に染まった。当時僕は中学(旧制)2年生で、両親と一緒に区の五反田に住んでいた。幸い直接被害に会わなかったが、寒い北風が吹く中、まんじりともせず朝まで外に立ちつくした。亡父の日記によると、父はその日ほとんど不眠のまま都電に乘って虎ノ門まで行き歩いて丸の内まで出勤している。日記の欄外には都庁、大審院、浅草観音など全焼と記載があるだけ10万人もの犠牲者が出たことなど知らなかった。新聞もラジオもほとんど報道機関の役割を果たしていない時代であった。B-29爆撃機329機が到来38万発の焼夷弾を無差別に投下したのを知ったのは戦後のことだ。
こんな大犠牲を出したにも関わらず、東京都が「都民平和の日」の名目で、大空襲の犠牲者を追悼し、平和を祈念する目的で都知事出席のもとに式典を開催するようになったのは昭和が終わり平成(2年)になってからで、午後2時には都民が一斉に1分間黙祷すささげる。今年はコロナ.ウィルス拡大防止のため式典は中止になったが、僕は忘れずに黙祷しよう。
僕だっけの気のせいだろうか。2011年3月11日の東日本大震災の後、この時期、マスコミの注目度が東京大空襲より移り「都民の平和の日」という名の東京大空襲の都民の関心度が薄れてきた。風化したとは言わないが、関係者の高齢者と共に関心が薄れてきた。どうだろうか。「都民平和の日」という名称ではなく、直接、大空襲犠牲者追悼式と名前を変えたらどうだろうか。