「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

コロナ.ウィルス途上国への感染拡大防止 日本の知見の活用

2020-03-16 13:14:30 | 2012・1・1
新型コロナウィルスの感染者数は依然欧州を中心に猖獗しており、世界全体の、患者数は17万人に迫り、感染国.地域は140、国連加盟国は193か国だからまさにパンデミックだ。こんな情勢の中で昨夜先進7か国の首脳が電話で緊急会談し感染拡大を中心に話し合った。

パンデミックの様相も時々刻々変化しているが、全体の患者数がウィルス発源地の中国を抜いて中国以外の国々が過半数になり、その中でもイタリア中心に欧米諸国の患者数が急増、同時に拡大の波が発展途上国に押し寄せてきたのは心配だ。

テレビの画面でフィリピンのドゥテㇽテ大統領が首都マニラを他地域から閉鎖し,ルソン島と他島との交通を大幅に制限した。多島国家で検疫も遅れているといわれる国だけに一大決意である。先月末まで感染者ゼロであったインドネシアでも「ダイヤモンド.プリンセス」号のインドネシア人乗組員の帰国を出向かえた閣僚が感染したといわれ観光地バリ島でも死亡者がでている。WHO(世界保健機構)事務局長テドロス氏の出身国エチオピアでも感染者がでた。

現役時代、開発途上国の仕事をし、途上国の旅行滞在経験が多いだけに心配なのはコロナウィルスの途上国への感染拡大である。安倍総理は昨日の国会で”わが国の知見を活用したい”と述べていたが、欧米諸外国の感染者数が4ケタなのに対してわが国が3ケタ(クルーズ船を除く)で感染を抑え込んでいるのは一つの知見である。大いに活用して貰おう。





荷馬車が走っていた大空襲直後の東京

2020-03-16 06:10:34 | 2012・1・1
75年前の東京大空襲直後の昭和20年(1945年)3月月16日の亡父の日記には”この日突如として”と疎開の話あり”記され,それから僅か6日後の21日、僕ら一家は25年住み慣れた家を強制的に追われ疎開させられた。この話は7年前の小ブロック(2013年3月12日)でも書いたが、戦時下の銃後の世界の一端として再度角度を変えて紹介する。

僕は当時東京の目黒川沿いの五反田に両親と住んでいたが、近くに軍需工場があっため建物強制疎開地に指定され、有無をいわせず1週間以内に家を引き渡すよう命令が下った。幸いわが家は当時まだ郊外であった柿の木坂の地に家作の借家があったためとりあえず家族を疎開させて独り住まいの方の家に同居することにした。父の日記によると五反田から柿の木坂まで5キロの道をわが家は家財を荷馬車に積み2日4回にわたり引っ越ししている。

戦争末期、バスなどの乗用車は木炭車の時代である。トラックはほとんど軍に徴用されて少なかった。このため町には昔ながらの荷馬車が見直されたのか、五反田駅近くには馬の蹄鉄屋がまだあったし、僕らは勤労奉仕で道に落ちている湯気の立つ馬糞拾いをしたりした。5月の空襲で被災した友人の話では空襲直後大通りを裸馬が火の中をおびえて走っていたという。

亡父の3月19日の日記には”町の中は引っ越しであたかも戦場のように騒然”と記しているが、その中でも町会の常会が開かれたり、防空演習があったり、出征兵士の壮行会があったりしている。五反田一帯はその後5月23日の空襲で全焼したが、わが家があったあたりは焼け残っていた。疎開の効果はあったのだが、市民にとっては大きな犠牲であった。