「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

単身赴任

2006-04-20 06:28:59 | Weblog
産労総合研究所の調査(2002年)によると、単身赴任者は
全国で70万人に上る。この数は1990年の調査が40万人だから
70%増である。現役のとき僕にも三回経験がある。
単身赴任の煩わしさと悲哀は経験者だけにしかわからない。

1969年、僕は東京から初めて河北の地、郡山に単身赴任した。
新幹線の開通前、特急で2時間40分かかった時代だ。子供が
まだ小さく、月に2回、家に帰るのが何よりの楽しみだった。
しかし、単身生活にはつきものの暴飲暴食。後ヤクの年、ついに
倒れて入院した。

単身赴任は高度成長の"あだ花"である。昔から転勤はあったが
官庁なり企業がそれなりの対応をし、個人も自分の持ち家とか
子供の教育にへばりついたりはしなかった。価値の多様化した
現在、なんとか、この非人間的な制度を廃止したいものだ。
きょう、これから36年前の単身赴任地、郡山へ出かける。新幹線
を使えば僅か1時間の距離になった。




クールビズは定着するか?

2006-04-19 07:08:29 | Weblog
夏日のある日が来て、クールビズが話題になってきた。環境省が
官庁の夏のエアコン温度を28℃に設定した措置に伴い提唱した、
男性ののための”ノー・タイ”ニュー・ファッション。かっての
”省エネルック”はモデルの男性大臣が悪かった?せいか定着
しなかった。しかし、今度は美人大臣が提唱者だったためかネクタイ
業界以外は、おおむね好意的だ。

現役サリーマン時代、高温多湿な夏に背広にネクタイでの出勤は
難行だった。満員電車の中ではタイをはずし、上着を脱いでいた、
ものだ。誰のための難行か? 上役、顧客などの目を気にしての
ものだった。

常夏のインドネシアで暮らしたことがある。この国では更紗(バ
ティック)シャツが定着、国の公式行事でも政府の高官がこれを
着ている。ただし長袖,裾をズボンに入れないのが礼儀。

明治維新以前の”ちょんまげ”時代は背広もネクタイもなかった。
クールビズ大歓迎。ただし他人に不快感を与えるものは困る。
ファッション業界の良識に期待している。




町から「のらくろ」が消えた。

2006-04-18 06:42:15 | Weblog
近くの公園を朝散歩すると、まさに犬の品評会だ。
八重桜の満開の道を、大きい犬、小さい犬、黒い
犬、白い犬がぞろぞろと歩いてゆく。しかし、昔
子供のころ見かけた野良犬はこの中にはいない。
みな由緒ある血統つきの犬のようだ。

野良犬というと、僕らの世代は田河水泡の漫画、
「のらくろ」を想いだす。本名は「野良犬黒吉」と
いうそうだが、「のらくろ」の名誉のためにいうと
雑犬ではなくて”ボストン・テリア”とのこと。

子供のころ見た雑犬は、どこへ消えたのかー。バリ
の海岸へ行くと、今でも野良犬があっちへ行ったり、
こっちへ行ったり、餌を探してうろついている。
昔、東京の街でも"広っぱ”では、こんな光景を
見かけたものだ。散歩道の血統つきの犬の行列を見て
無性に昔の野良犬に会いたくなった。耳の垂れたあの
”ポチ君”、”エス君”たちである。




ラジオを聴かなくなった子供たち

2006-04-17 06:30:36 | Weblog
日曜日の夜、たまたまラジオ(NHK)のスウィッチを入れたら
聴き慣れない番組をやっていた。アナウンサーと若い女性
タレントとの"かけあい”で、何故子供たちがラジオを聴かなく
なったのかーその原因究明の真面目な番組だった。
どこかの研究所の調査によると、昭和50年(1975年)には10
代の子供たちの40%がラジオを聴いていたが今は僅か6%
しか聴いていないという。

昭和50年といえば民放の深夜番組の全盛期で(ラジオを聴き)
ながら族という言葉もあった時代だ。あの時代との比較は困難
だが、孫(10代)たちは、まずラジオを聴かない。多分、
彼らの日常生活の会話の情報源にはなっていないのだと思う。

10数年前から始まったNHKの「深夜便」が老人たちの人気に
なっている。リスナーのターゲットを高齢者に絞込み、活字
媒体(雑誌)との連動作戦が功を奏しているからだと思う。活字
離れの10代の子供たちのこと、それも無理かもしれないが、
ラジオという媒体の特性をいかした良質の番組、例えば
「音楽の泉」的なものを聴かせたらどうか。

人生流転 一期一会

2006-04-16 07:45:54 | Weblog
(第一幕)長野
第一場   善光寺平の小学校 A男とA子仲よく机を
      並べて勉強 音楽「信濃の国」 昭和10年代
第二場   警察署の記者クラブ B子、たむろする各社の
      記者にお茶を入れる 音楽「シェーン」
      時代は移って昭和20年代後半
第三場   A子、縁があってB子の兄と結婚、B子も記者
      クラブのA社A記者と結婚 音楽「北信流謡」

(第二幕)札幌
ナレーション  B子、A記者の転勤で東京へ。三人の子育てで多忙
        の毎日。A男 東京の大学を卒業 映画助監督を経て
        民放勤務
第一場   スキー・ジャンプ台が見える札幌の住宅街。A記者新聞から 
民放に移り、新しく出来た北海道の民放に。A男も東京の
      民放から出向で札幌に転勤、二人隣あわせの住宅に家族
      ぐるみ住む。音楽トワエモアの「札幌五輪賛歌」
      
 
(第三幕) 東京 
ナレーション  A記者、定年前に民放をやめ、故郷の東京で
        フリーの仕事。B子も子育てを終え、老後の
        趣味を楽しむ
第一場   老人クラブの日帰りイチゴがり・バス旅行の中。
      B子、隣の女性の妹さんが、50数年前、長野の記者
      クラブでお茶を出したB社のB記者であるのを知り
      驚愕。 音楽 とくになし。

(第四幕) ?
A男、A子は鬼籍に入った。が、幸い他の関係者は
       元気。将来の一期一会を期待。余生を楽しみたい。  
  
  

”大きな喫茶店”

2006-04-15 07:23:23 | Weblog
「小さな喫茶店」という歌がある。

# 小さな喫茶店に入ったときの二人は
  お茶とお菓子を前にして一言もしゃべらぬ・・・

もともとはドイツの歌だそうで、昭和10年(1935年)
中野忠晴が歌ってヒットした。この歌から連想される
「小さな喫茶店」は、若いカップルが甘い音楽を楽しみながら
恋をささやく小さな空間である。金婚式を昨年おえた我が
老カップルも昔お世話になったような気がする。

いまは「小さな喫茶店」に代わって「大きな喫茶店」が
増えている。”駅ナカ”と称するJRや私鉄の構内で
みられるあれである。駅が公共施設で税制面で優遇
されているためか林立している。

「大きな喫茶店」は飲み物も種類が豊富で安いし、なにより
人と待ち合わせするには便利である。セルフサービスも
そんなに気にならない。椅子やテーブルが安楽でなくても
仕方がない。紙コップも値段からみてやむをえない。
問題はムードである。「小さな喫茶店」のそれまでは要求
しないが、何とかして貰いたいのは若い女性がプカプカ
タバコをすっている姿である。


エントツ・タクシーと円タク

2006-04-14 07:49:57 | Weblog
エジプトのカイロでメーターが”機能”するタクシーが
誕生した、とNHKが伝えていた。カイロでは、ほとんどの
タクシーがメーター器機を備えているが”機能”せず、
料金は客と運転手との交渉で決められている。しかし、
新しく誕生したタクシーは、メーターが完全に”機能”
しています、とボデイの色まで変えているそうだ。

カイロだけではない。開発途上国ではこのメーターあって
メーターなしタクシーが多い。日本でも昭和30年代には
このようなタクシーが横行、これを”エントツ・タクシー”
と呼んででいた。メーターを倒さず、走る、という語源から
と、記憶しているが定かではない。交番の前を走る時など
客はシートに伏せたものだ。

戦前のタクシーは”円タク”と呼ばれた。東京市内どこへ
行っても料金が1円だった、ことからきている。しかし、
近距離の場合は、交渉で1円以下でもOKだった。まだまだ
タクシーは一部の人だけのもの、運転手のほかに助手が
運転席横に乗っていた”のどかな”時代のことだ。


ビートルズのころのロンドン

2006-04-13 08:17:23 | Weblog
昨夜のNHK「深夜便」で、ビートルズ初期の特集をしていた。
1962年(昭和37年)秋、僕は1週間ロンドンに滞在した。
ちょうど,リンゴ・スターが正式メンバー入りし、初の
レコードを出したころだ。短期の滞在であり音楽については
門外漢。残念ながら当時彼らの演奏は聴いていない。

いま東京タワーで展示中の彼らの蝋人形を製作した、マダム・
タッソーへ出かけたが、もちろん当時無名に近かった彼らの
蝋人形はなかった。

当時のロンドンでは、大英帝国ころの象徴、山高帽に燕尾服、
こうもり傘の”紳士”がシテイに沢山見られた。ソーホーも
デイッケンズのころと同じように感じられた。1960年代つまり
いまブームの昭和30年代のロンドンである。東京タワーも
偶然だが昭和32年に建造されている。古き好き時代の東京で
ありロンドンであった。そう感じるのは年をとった証拠で
ある。

”甲種合格” 孫の体格

2006-04-12 07:07:20 | Weblog
新学期の体格検査の結果、孫(男)の身長が老妻を抜いた。
小学校5年で153cm、体重40kg、クラスで大きい方だが、
それにしても今の子供の成長はよい。大東亜戦争が始まった
昭和16年、僕は同じ5年だったが、当時の通信簿(通知表)に
よると、134cm、30.4㎏にすぎない。当時僕は決して
小さい方ではなかった。

戦前まで、わが国は徴兵が義務だった。日本人男子はすべて
20歳になると、徴兵検査を受け、これに合格すると軍隊に
入らなければならなかった。徴兵検査(体格検査)の基準の
最高が”甲種”で、およそが身長五尺三寸(約160cm)
体重十五貫(約55㎏)であった。”甲種合格”は当時の若者
の本懐で、家の誉れであった。



身長、体重の基準だけならば、今の日本人は全員”甲種合格”
間違いない。しかし、平和憲法の下、徴兵制度は廃止された。
若者たちは戦争に行く必要はなくなった。よい時代である。
戦争であれだけの犠牲を支払い、勝ち取った平和だ。大切に
したい。

女性専用車両はいらない

2006-04-11 07:16:12 | Weblog
戦後の昭和20年代、まだ東京に焼け跡があったころ、
「進駐軍専用車両」が連結されて走っていた。ガムをかみ
かみ、パンパン女を連れて、これに乗っていた。
いま、都内を走る電車に「女性専用車両」が走っている。
変な連想だが、僕は当時風をきって歩いていたGI
(進駐軍兵士)と人前をはばからず車内で化粧する、
いまの若い女性とがオーバーラップしてくる。

きのう横浜まで行ったが、この先頭車両にも「女性専用車」
が連結されていた。車内はガラガラなのに、僕の乗った
”男女混合車”はほぼ満員。70代の老夫婦が僕の車両に
乗ってきた。女性はすぐ隣の「専用車」の老人優先席に行き
座ったが、男性は移れず”混合車”に立ったまま。”混合席”
の老人優先席には、若い女性が恍惚と化粧に励み、初老の
男性が年甲斐もなく漫画本に読みふけっていた。

「女性専用車」の発想は痴漢対策と聞いているが、どうだろう。
電鉄会社か警察かわからないが、七十代以上の男性に老人証
を発行して「女性専用車」に乗車させて貰えないだろうかー。