「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

多様化する老人クラブ

2006-09-10 05:37:52 | Weblog
老人会に行ったことがない老人が老人会を論ずる資格がないが、最近、
都会では男性の老人クラブ参加者が減ってきているようだ。事実それを
裏付けるように全老連(全国老人クラブ連合)の資料だと、ピーク時の
平成10年には880万人もいた会員数が17年には820万人に減少した。老人
数は毎年増加し、34年には日本人の4人に1人が65歳以上の老人になると
いうのに逆行現象である。


都会ではゲートボールをする老人の姿がほとんどみられない。する場所が
ないのが最大の原因だと思うが、新しく仲間入りした"若い老人”にいわ
せると、イメージがあまりに年寄りすぎるという。また”1番””2番”と
号令されるのが”軍隊調”だと嫌う者もいる。従軍経験の"古い老人”
には抵抗はないのかもしれないが、昭和1ケタの老人でも嫌な想い出に
通じないでもない。


毎朝近くの大学キャンパス跡で行われているラジオ体操に参加している。
90歳の元軍医さんを筆頭に参加者は全員60歳以上の男女である。
リーダーが交代に前に出て模範を示す。号令など一切かけないのだが
それでもアレルギーを感じて、会場の外で体操をしている常連が毎朝
3,4人はいる。


老人の意識が変わってきているのである。趣味も多様化し他人の号令
いっか、同じに動く時代ではなくなっている。”団塊の世代”が老人の
仲間入りすれば、この傾向はさらに強まろう。













進駐軍がやってきたころ

2006-09-09 05:54:37 | Weblog
マッカーサー連合軍(進駐軍)司令官が帝都に進駐したのは、昭和20年9月8日
であった。日本が東京湾のミズリー号上で正式に降伏文書に調印してから6日後
である。マ元帥と共に約8,000人の兵士が代々木練兵場(今の代々木公園)に
幕営した。都民はこれを”断腸の思い”で迎えた(父の日記)。皮肉なことにこの
日をもって大詔奉戴日(大東亜戦争勃発記念日の式)は廃止となった。

それから3日後の11日、東京用賀の自邸で東條英機・元首相が収監に来た進駐軍
兵士の前でピストル自殺を図ったが、一命はとり止めた。翌12日には杉山元・元
帥夫妻が自殺した。記録によると、進駐軍による戦犯指名、逮捕を前にこの一週
だけで元将軍、閣僚が5人が自ら命を絶っている。

このころ庶民の生活はどうだったかー。父の日記によると、わが家では庭の防
空壕がこわされ、貴重品を取り出した。(8月31日)強制疎開の補償金9,020円
が半年ぶりに区から交付された(9月1日)気象通報(天気予報)が復活した
(8月26日)毎晩のように停電があり、配給の胚芽米を一升ビンの中にいれ、
はたきの棒で”精米”するのが仕事であった。

占領当初は各地で占領軍による犯罪が多発、9月20日には葉山の御用邸まで略奪
にあっている。性犯罪対策として東京都はRAA(特別慰安施設)を大森海岸
などに設置した。
僕ら中学生は始めて見るジープや黒人兵に目を驚かせた。やがて家から人形など
を持ち出し、横浜大桟橋付近で米兵に”エクスチェンジ”と声をかけチュウイン
ガムやチョコレートと交換したものだった。



ボケ ボケ ボケの一日

2006-09-08 05:49:31 | Weblog
またわが家に”オレオレ詐欺”がお出ましになった。昨年秋に続いて
二度目である。電話に出た女房の話。
「オレわかるかい?オレだよ。”けんじ”だよ」
「わかりませんが、いま主人にかわります」
僕が電話に出た時にはガッチャン。
昨秋のときは、僕が交通事故を起こし妊婦を轢いてしまったという話。
僕は車の免許を持っていないので、女房はすぐインチキと見破った。

七十台半ばをすぎると確かにボケは始まっている。きのうわが地区では
老人用格安パス(千円で1年間都内のバスなどが乗れる)の交換日なので
指定の場所に女房と行った。ところが所得証明がないので門前払い。
郵送してきた書類には、今年から制度が変わって所得証明を持参せよと
書いてあるのだが、それを読まなかったのだ。僕ら夫婦だけでなく4人に
1人は暑い中を近くの区の出先まで証明書を取りに行かされた。
書類には証明が必要なことは明記してあるが、持参書類が多すぎて老人に
は判りにくいのだ。

きのうは女房にとって厄日だった。夕刻、税金を銀行支払いに変更する届出が
内容不備で返却されてきた。よく見ると、字が老人には小さすぎて見落として
いたのだ。ボケ ボケ ボケの一日だったが、これからますます高齢化社会に
はいるのだから関係者はボケ対策を老人の立場から検討して貰いたい。

「皇太子さまお生れなった」

2006-09-07 06:09:42 | Weblog
今上陛下がお生れになったのは昭和8年12月23日である。この日、東京
市内では、夜明けとともに丸ビル、愛宕山、上野の博物館など18か所
から一斉にサイレンが二回鳴り響いた。一回ならば内親王、10秒後に
二回目が続けて鳴れば親王(皇太子)誕生と、あらかじめ知らされていた。
そのとき僕は2年10か月、まったく記憶にないが、なぜか「皇太子さま
お生れなった」の歌詞とメロデイを覚えており、当時日本中が喜びに湧
いた模様を追体験できる。

#   「皇太子さまお生れなった」(北原白秋作詞 中山晋平作曲)

  (日の出だ日の出に 鳴った鳴った ポーオポー
   サイレンサイレン ランランチンコン 夜明けの鐘まで)
   天皇陛下お喜び みんなみんなかしは手
   うれしいな母さん 皇太子さまお生れになった

   (かっこ部分は重複)
   皇后陛下お大事に みんなみんな涙で
   ありがとお日さま 皇太子さまお生れなった

   (かっこ部分は重複)
   日本中がお喜び  みんなみんな子供が
   うれしいありがと 皇太子さまお生れなった
  

当時昭和天皇は32歳、皇后陛下は30歳だったが、先にお生れになった
お子様が3人とも内親王だったため国民は親王誕生への期待感が強かった。
それだけに皇太子の誕生はひとしお嬉しかった。北原白秋はその喜びを
この歌に表現しているが、若い世代に理解しにくくなった文言があるので
蛇足する。「かしは手」は神社を参拝したとき打つ二拍のこと。「お日様」
は太陽。戦前には日の出のさいご来光を拝む人がかなりいた。
今では毎朝神社に参拝したり、日の出を拝む日本人は少なくなった。





イエメン ”秘境"地でのサッカー

2006-09-06 06:02:28 | Weblog
アジア杯予選イエメン戦がきょう6日、同国の首都サヌアで行われる。
サッカーについては”ド素人"の僕だが、試合の結果とは別に、かって
若かりし頃苦労して訪れた国で行われる試合だけに、格別な関心と興味
がある。

昭和37年(1962年)秋、僕は新聞社の正月企画をかねて、王制革命
直後のイエメンを訪れた。といってもアデン(当時は英国保護領)が
中心で、南部のタイズに一泊したに過ぎないのだがー。革命政府第一
便に乗った僕ら報道関係者は首都サヌアへ向けて出発したが、なぜか
途中でタイズで降ろされてしまった。

タイズでの印象はただ驚きだった。独特の民族衣装をつけた小柄な
男たちが腰に刀をさし、なにか麻薬っぽいガートという草を口中で
噛んでいる。貨幣は「マリア・テレサ・タラール」という古い磨耗
したオーストリア銀貨が通用していた。僕らはこれまた前世紀に建て
られたような迎賓館に宿泊したが、飲料水用に貯めていたバス・タブ
の水の中に飛込んだ米国人がいて使用人を嘆かせた。

昭和30年代には、まだ「世界の秘境」といった雑誌が売れていた。当時の
日本人から見ればイエメンは”秘境”の一つだった。タイズから僕らは
四輪駆動車で砂漠の中の道を、途中エンコした車を押しながら8時間
かかってアデンに帰った。あれから44年、サッカーのアジア予選がイエ
メンで行われるー時の流れを感じる。感無量である。










困る 「煙害輸出国」インドネシア

2006-09-05 06:10:52 | Weblog
9年前の今ごろ(1997年8月ー12月)僕はメダンの短大で日本語を教えていた。
オランダ時代、メダンは世界で一、二の綺麗な町といわれていた。白亜の建物
に緑が映える、その美しさの片鱗は、僕がいた時にもあったが、9月に入って
急にゴースト・タウン化した。山火事の煙で太陽が隠れ、煙害で市民はマスク
をして外出するようになった。結果として、僕のボランティア活動もストップ。
1年の予定が4か月で帰国せざるをえなくなった。

近着の「じゃかるた新聞」によると、またぞろインドネシアは「煙害輸出国」
として近隣諸国からつるし上げされている。スマトラ、カリマンタンの森林
火災で、マレーシア、シンガポール、タイ、ブルネイ各国に煙害が拡大し、航
空便の欠航、観光客の減少、住民の健康などの被害が出始めているという。
先月のASEAN通商大臣会議でインドネシアは野放しの山火事対策を厳しく糾弾
された。

インドネシア環境省の統計によると、スマトラの山火事の31%は、油やしの
プランテーション地から、カリマンタンの37%は木材伐採管理地からだという。
よく言われているような焼畑農民の不注意の失火からではないようだ。とくに
油やしは近年、世界的に需要が高まり、植林面積が増えている。果実は石鹸、
果肉は食用油、種子からはバイオ・ディーゼル油もとれる。このため自然林が
伐採、焼却され、油やし農園が増えている。

このところインドネシアは地震、津波、過激派テロと”厄病”にとりつかれて
いるみたいだ。同情するが「煙害」の輸出だけは困る。ユドノヨ政権のきちん
とした対応を期待する。わが国も対岸の火災視してはならない。

危険です! 若いお母さんの自転車運転

2006-09-04 06:01:37 | Weblog
都会で幼児を自転車の前と後ろの荷台に振り分けてペダルをこぐ
元気なお母さんの姿を多くみかける。いい加減くたびれかけた老人の
目には、嫉みもあるのかもしれないが、危なくて見ておれない。
自転車はむかし、車道しか走れなかった。その時代、警察は二人
乗りや無灯火にもっと目を光らせていた気がするのだがー。今は
三人乗りはおろか、荷台に少女を立たせたサーカスまがいの若者
がいても警察は取締まらない。無灯火など知らぬ顔だ。

きのう、近くのスーパーへ自転車で買物に行った。ゆっくりと慎
重に道の左側をこいでいたら、突然わずかな隙間を元気な少女が
猛スピードで追い抜こうとした。こちらは左折しようとしていた
ので危うく衝突しかけた。少女は顔とはうらはらの恐い目で僕を
にらみつけてきた。

どうも最近、交通法規に限らず社会の規範が緩んできたようだ。
すべて法で取締まれというではないが、世界中どこでも当り前
に守られているモラルは守り、無視する無法者は取締まり場合に
よっては罰金を科すべきだ。
子供のとき、何か悪いことをすると、母親から”お巡りさんを
呼びますよ”とよく言われたものだ。
幼児を二人、三人乗せた自転車運転が法に違反するかどうかは
知らないが、孫をもつ老人には危険に見える。老爺心ながら。

ちいさい秋 大きい秋

2006-09-03 06:10:08 | Weblog
# 秋来ぬと目には さやかに見えねども
  風の音にぞ 驚かれぬる  (藤原敏行)
「風立ちぬ」の季節である。どことなくどこかに「ちいさな秋」を感じる今日
このごろである。自然喪失の東京でも虫が集き始め、部屋に射し込む日
足も心なしか長くなってきた。”わずかな隙間から”の風も確実に秋だ。

# 月見れば千々にものこそ 悲しけれ
  わが身一つの秋にはあらねど(大江千里)
万葉の昔から日本人は「秋」に心をうたれる。小倉百人一首には「秋」の字を
直接織り込んだ歌が11首もある。ほかに「紅葉」など秋を季題にした歌も多い。
四季の中では「秋」が一番、心の琴線に訴えるものがあるのだろう。

勤めで札幌にあしかけ10年住んだ。札幌の「秋」は駆足でやってきて駈足
で去ってゆく。藻岩山の紅葉は10月初めには始まり、街路樹のナナカマドが
色づき、雪虫が舞い始まる。町には冬の準備を告げる漬物用の大根干しが
散見し出し、美味しい”秋味”の鮭も食卓にのぼる。季節は短いが”大き
い秋”である。

作家の渡辺淳一さんのお母さんは、札幌に秋が来ると本州に郷愁を感じ、
故郷に帰りたくなった、と同氏は随筆に書いていた。僕も同じ心境だった。
北海道の「秋」はビッグすぎ、本州の”ちいさい秋”を知っている者には
なじめないのだ。”柿食えば鐘が鳴る鳴る法隆寺”の日本の原風景のない
物足りなさも影響しているのかもしれない。

日本軍政下の製紙工場

2006-09-02 06:02:07 | Weblog
小田原製紙記録保存会のS氏から「南方事業報告書」を頂戴した。冊子は
大東亜戦争時のスマトラにおけるわが国製紙会社の操業状況と60年後の現況
追跡調査である。

南方における日本の軍政は長くても3年余と短く、期間中の民間の記録は
ほとんど残されていない。昨年12月、たまたま他の事でスマトラ旅行を計画
していた僕は、S氏の調査追跡旅行に興味を持ち同行した。北スマトラの
メダンを出発、西スマトラのパダンまで陸路3泊4日の旅は昭和1桁の二人
にとってかなりタフだった。

残念ながら60年の歳月の経過で、戦時中の工場は今はどこも操業していなか
った。しかし、メダンからトバ湖に向かう途中のララスにあった王子製紙の
工場跡には当時の機械据付基礎とグラインダー・ストーンが残っていた。
一方、西スマトラ・ブキティンギの小田原製紙工場跡には操業時の4本の高い
煙突と水路だけが形を留めていた。敗戦で日本軍が引揚げた後、スマトラは
独立戦争の戦場となった。多分その時工場は破壊されたものだろう。

S氏はかっての工場がそのままの姿で残っているとは期待していなかった。
しかし、もしかすると、当時伝授した日本の製紙技術がなんらかの形で
引き継がれているのではないかと淡い期待をもっていたようだったが、
「日本の技術の痕跡はまったく見られず残念だった」(冊子序文)。S氏の
期待は完全に裏切られた。

歴史に”レバ””タラ”は禁物だが、日本の製紙工場がそのまま操業して
いたならばーと残念に思う。現地にはこれといった産業がなく、依然
若者の失業者が群れをなしているだけに。



関東大震災と流言 危機管理

2006-09-01 06:13:57 | Weblog
関東大震災から83年目。直接体験された方が年々少なくなっているが、
僕の知り合いには二人おられる。一人は今年90歳、東京の牛込で遭遇、
下校時(小学校1年)道路脇の電信柱にへばりついた記憶。もう一人は
92歳、地震よりもいわゆる”朝鮮人暴動”で地震の夜、近くの白金火薬庫
跡に避難した記憶。二人とも少年時の体験だが、強烈だったようだ。

震災時の記録によると、朝鮮人が各地で暴動を起こし、石油で放火した後
爆弾を仕掛けているというデマが地震発生直後広まった。まったくの流言
だったが、不幸にもこの流言が引き金で”自警団”によって殺された犠牲
者は233人に上っている(政府発表)。地震後のパニックで情報が正しく
伝達されなかったのが原因だが、政府の危機管理体制にも問題があった。
たまたま内閣の首班、加藤友三郎氏が8日前に急逝し総理が不在であった。

関東大地震はM7・9、死者行方不明10万余の犠牲を出したが、当時は
まったく想定外のことだったと思う。いわんや震災後の危機管理など
具体的な対策など立てていなかったのではないか。流言飛語などによる
暴動など考えてもいなかった。震災から83年、情勢は当時とは違うが、
違えば違ったなりに危機管理の面でも想定外のこともあるかもしれない。
IT,原発関係大丈夫なのだろうかー。