「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

ドンド焼きの松飾りしめ縄お断り すたれ行く正月風景

2017-01-11 06:44:24 | 2012・1・1
日本郵便の発表によると、今年元旦に全国で配達された年賀状は前年比約6パーセント弱で16億4000枚だった。8年連続前年比割れで、全盛時の1993年に比べると4割減だという。わが家もご多聞にもれず減ってきた。これは、もっぱら僕ら夫婦の加齢によるものだと思っていたら、主な原因は電子メールやSNSの普及による若い世代の賀状離れによるものらしい。

年賀状だけではない。伝統の新年正月が年々すたれてきて老人には寂しい限りだ。先日、老妻が15日のドンド焼きの前に正月の松飾を近くの神社へ奉納に出かけたら”〆縄、松飾お断り”の立札が立っていたという。昔、僕が住んでいる町が東京市荏原郡であったころには、この地区でも「賽(せ)の神」と呼ばれたドンド焼きの行事があったと町内誌に書いてあったが。

初夢は”一富士二タカ三ナスビ”と昔はよくいわれていたが、老妻が今年はそれをみなかったのだろう。今年わが家では七日の七草粥(粥)を食べるのを忘れてしまった。書初めという行事もあったが、僕も老妻もしなかった。この分では多分、かってはわが家の小正月の年中行事だった小豆粥もないかもしれない。この季節、”おこと始め”の行事もあったが、認知症の始りか、いつ、どんな行事だったか忘れてしまった。

代って商魂たくましい異国のお祭り「バレンタイン」が、まだ来月だというのにチョコレート店の店先に”予約承り”のポスターがみられる。昨日、わが家の郵便箱には、年賀状のお返しが4枚入っていた。賀状は元旦に、お屠蘇気分で見るものだと思っていた僕には頂戴していて申し訳ないが、今ひとつ有り難さを感じない。

ここまで書いたら、今日11日は、関東では「鏡開き」の事を想い出した。神棚からお供え餅を下げて食べることにしよう。

ボケ防止 75歳から始めたブログ4000日の効能

2017-01-10 06:42:32 | 2012・1・1
平成18年(2006年)1月31日、このブログを開始して今日で4000日目だそうで、その表示が出た。10年と350日、自分ながらよく続けられたものだ。この間のトータル閲覧数(PV)は2,770,208、トータル訪問者数(IP)は550,4890と、大変大勢の方に目を通して頂いた。光栄の至りだ。

11年前、75歳の誕生日を迎えるに当たって、手元ぶたさに毎日を送っている僕に”ボケ防止にブログでも書いたら”と冗談交じりに勧めてくれた。それを受けて僕も軽い気持ちで駄文を書き始めたのだが、まさか、こんなに”はまって”しまうとは思ってもいなかった。いつか毎日更新しないと、気がすまなくなり、病気で入院(6回)、海外旅行(5回)それにPCが故障修理に出した日以外、毎日書いた。

"継続は力なり”という諺があるが、ブログを開始して数年間は、PVは100、IPも2ケタだったが、最近は毎日ランキング入りし始めた。2013年3月26日に更新した”「仰げば尊とし」「蛍の光」”は、なんとPV9052,IP6177、22位にランク入りした。70年前(昭和18年3月)に卒業した国民学校(小学校)の卒業式の想い出を集合写真を添えて紹介したものだった。

ブログ4000日の何よりの効能は、やはりボケ防止だ。毎日、何を書こうかと頭を使い、そのために新聞を読んだり、時には資料を調べなくてはならない。そして、時には書く材料がない時には、近所を散歩して写真を撮って来たりして健康にもよい。僕はまだ自分史を書いていないが、ブログ自体が自分史みたいなものだ。
(写真再録)昭和18年3月 皇居前の国民学校卒業記念など

都会のベランダの白梅

2017-01-09 01:31:48 | 2012・1・1

正月も早や松が明けて成人の日である。この新年、東京は暖かい春めいた日が続いたせいか、わが家の乱雑としたベランダの鉢植えの白梅がほころび始めた。歳をとるとともに、冬の寒さがこたえ、春を待つ心が強くなる。”寒梅や梅の花とは見つれども”(蕪村)であっても、僕にはやはり白梅は梅とは異なる趣があって好きだ。春を告げる使者である。

      庭上一寒梅 笑侵風雪開
      不争又不力 白占百花魁 (新村穣)

漢詩には門外漢の僕だが、新村穣の終りの二詩、「不争又不力」「白占百花魁」が、なんとはなく理解できる年齢になってきた。しかし、一方では、新成人を迎えた若者が羨ましい。あの活気に満ちていた時代は、もう二度と帰ってこない。


小池百合子都知事の臥薪嘗胆

2017-01-08 05:58:23 | 2012・1・1
小池百合子都知事が先日の定例会見で、この夏の都議会選挙にむけて改革派が勝利するため、断酒、臥薪嘗胆で生きたいと断言した。小池知事は横文字だけでなく、四語熟語もお好きなのだろうか。しかし、老人の僕には、ちょっと抵抗を感じる。

「臥薪嘗胆」(十八史略)とは,”かたきを討とうとして絶えずそれを考え、長い間艱難辛苦を重ねる事”(三省堂慣用句ことわざ辞典)である。小池知事が”かたき”とするのは多分”黒い髪をしたネズミ”のようだ。知事はそれが誰だか明らかにしていないが、夏の選挙を意識して改革に立ち向かう都議会自民党だろう。”女の一念岩をも通す”(A woman's vengeance know no border)=(福音館ことわざ小辞典)ということわざもある。都議会自民党は用心を!

昨日、東京で小池知事が主宰する政治塾「希望の塾」が、都議会選挙の候補者を絞り込むための筆記試験があり、1400人も集まったそうだ。これも知事がいう臥薪嘗胆、かたきとする黒いネズミ退治の一環なのだろうか。僕は小池知事に対して好意的なブログを書いてきたが、この政治塾については、知事の「都民ファースト」の視点とは、あまり関係ないので反対だ。

都政は豊洲市場への移転、東京五輪の分担金などなど問題が山積している。都議会自民党からは”女、賢(さか)しうして牛を売りそこなう”(売り手の女があまり利口だと、かえって牛を売りそこなう=前記三省堂辞典}と手ぐすねしているかもしれない。”大山鳴動してネズミ一匹”にならなければよいがと”老爺心”ながら心配している。

後期高齢者から見た「老人」の定義

2017-01-07 06:32:51 | 2012・1・1
日本老人学会などが従来「老人」とされていた”65歳以上”の定義を”75歳以上”に見直すべきだと提案した。現在85歳11か月の僕の体験から見ても当然のように感じる。僕の場合は65歳まで仕事をしていた。70歳まで働ける仕事だったが、余生を楽しみたいと思い辞職した。しかし、自分が「老人」になった意識はなかった。

平成20年4月、福田康夫内閣の時「後期高齢者医療」制度が施行された。その時野党民主党の代表だった鳩山由紀夫氏らが、”おばあちゃんの原宿”巣鴨の街頭で宣伝車の上から”姥捨て山”制度だと獅子吼していたのを想い出す。困った福田首相が、通称”長寿”制度なのだといったが、いつの間にか忘れれてしまった。当時、僕は77歳だったが、まだ元気で”後期”とは失礼だと感じたものだ。

昨日、僕ら夫婦が住む東京の区役所の老人福祉課の職員が、要介護1の認定を受けている夫婦の更新確認調査に来宅した。二人とも3年前、ガンの手術で入院、さらに僕の膝の人工関節置換手術などが重なって、要介護1の認定を受けた。そのおかげの介護サービスで家のトイレや風呂場などに手すりなどをつけ、老人用に改築出来た。更新手続きのため、色々テストがあったが、二人とも”ボケ調査は大丈夫だったが、やはり、身体にはガタがきている。後日、区役所から認定延長の可否の通知があるが、調査を受けること自体、すでに「老人」になった証拠である。

90歳以上の老人を「超高齢者」と呼んだら、どうかという提言でもある。問題は年齢が幾つからということではない。それぞれ人によって違う。僕の場合は、75歳から、このブログ「老人タイムス」を始めたが、その時、心の中の反面には、まだ自分は老人ではないという意識があった。「老人」だと思ったのは介護の認定を受けてからであった。いずれにせよ、65歳―74歳は老人ではない。


102歳 インドネシア独立の生き証人 元気なウスマン夫人

2017-01-06 06:21:31 | 2012・1・1
マスコミは”百歳もの”がブームなのだろうか、先日小ブログは「人生百年時の戦略」の本がベストセラーだと伝えたが、新年の新聞の「週刊現代」の広告を見たら”百年生きるのは幸せか”を特集していた。見出しによると、東京五輪時の百歳以上の日本人人口は10万人を超えるが、果たして、これが幸福なのかというのだ。

昨日僕は知人と一緒に、今、東京の病院で完全介護生活されているウスマン夫人を年賀方々見舞った。ウスマン夫人についいては小ブログは何回か紹介させて貰っているが、戦前、日本に留学中のウスマン.マジッド青年と結婚、戦前、戦中のインドネシア独立史を夫と共に生きてきた日本人女性、長田周子さん(102歳)である。

ウスマン夫人は元気で幸せとお見受けした。個室の部屋のベッドでの生活されており、車イスの世話にはなっているが、自分の事は自分でされている。とても百歳を超えた超高齢者とは見えない。僕は6年前、東京で長女のウスマン.サルミヤ医博宅でウスマン夫人の半生を聴き取り調査させて頂いたが、当時と全く変わらぬ抜群の記憶力である。

厚労省の調査では、昨年の百歳以上の日本人は6万5692人で前年度より4124人増えている。46年連続の増加である。この調査が開始された昭和38年(1963年)には僅かに152人だったそうだから驚きだ。「週刊現代」の2020年百歳以上10万人の予測は間違いなくクリアーされるだろう。

ウスマン夫人に長寿の秘訣を聞き忘れたが、ベッドの上にはインドネシアの新聞と日本語の本が載っていた。そして会話のハシハシに病院食は、自分には淡白すぎると苦笑されていた。ひょっとすると、ウスマン夫人のようなバイリンガルは長生きの秘訣かもしれないし、長年のインドネシアの食事が長生きにはよかったのかもしれない。

凧揚げ 羽根つき カルタ 双六(すごろく) 福笑い トランプ 消えた正月の遊び

2017-01-05 05:52:41 | 2012・1・1
昨日も東京首都圏は雲一つない、抜けるような青空、ベランダからは雪をかぶった富士が遠望できた。僕が昭和18年に卒業した小学校の応援歌は”四方緑に包まれて梢に高き富士の根を”で始まっており、東京の区部でも富士が当たり前のように見えた。そして、まだ”原っぱ”と呼ばれた空き地が残っており、正月休みのこの時期、子供たちは競って、天高く凧を揚げ興じたものだ。これが冬の風物詩でもあった。

今年の正月、僕は凧揚げを見たことがない。わが家の近くには揚げたくとも、もう”原っぱ”は残っていない。戦前は、これまた当たりまえだった、晴れ着の少女の追い羽根姿も見られない。羽根をつきたくとも、車の激しい舗装した道ばかりだ。

孫たちが皆成長してしまって判らないのだが、僕らが昔、遊んだ正月の室内遊びは今どうなっているのか。70余年前の戦前の遊びを想い出してみた。一番の人気は百人一首といろはカルタであった。小学校低学年だった僕でも一枚か二枚、得意札を持っており、何故かいまでも、一枚札が”むすめふさほせ”な事を憶えている。百人一首札を使った”坊主めくり”も人気があった。札を裏返しにして1枚ずつ、めくり坊主の絵札が出たら相手にめくった札を全部渡し枚数を競うというものだ。”犬が歩けば棒に当たる”で始まるいろはカルタもあったが、子供たちには何故か古臭い感じがして、”現代”版のカルタを使った。

双六(すごろく)や福笑いも定番だった。江戸時代からの遊びだろうが、東海道五十三次にならって、出発点からサイコロの目にそって進み、時には宿の指示に従って逆もどしたりして、誰が一番早くゴールに到着するかを競うもの。出世双六的なものが多く、将棋の駒を使っての遊びもあった。福笑いは、目隠ししておカメの顔をした絵の上に、目、鼻、口などを置き、その出来上がりぶりの面白さを見る他愛のないものだ。

トランプ遊びも人気があった。想い出すままに列挙すると―。「ババぬき」「七並べ」 「ダウト」「神経衰弱」などなど。遊び相手がいないと、カードを使って占い遊びをした。そのほか、家族合わせ、動物合わせなどもあった。子供たちにとっては遊ぶに事欠かなかった。」今の子供たちは、独り家に籠ってテレビゲームやケータイで遊んでいるそうだが、成長して大人になった時、正月の想い出はそれなりにあるのだろうか。

平穏でめでたさ一杯 日本の"おらが春"

2017-01-04 06:19:00 | 2012・1・1

東京首都圏は正月三が日、晴天に恵まれ、朝夕にはわが家からも遠く富士の霊峰が眺められた(写真)平穏で静かな三が日だった。80半ば過ぎの老人の僕は、元旦、近所の神社に初詣に出かけた以外、三が日だけ老妻から特に許された「御酒」を、美味しく頂きながらテレビの箱根駅伝の中継を一人で楽しんだ。

安倍晋三総理が2日、茅ケ崎のゴルフ場で財界のお歴々とプレイを楽しんでおられた。昨年は東奔西走、1年間で9回も海外に出かけた総理だけに久しぶりのゴルフだったようである。三が日はホテルに宿泊、家族と一緒に話題の映画「海賊と呼ばれた男」を観賞されご馳走を食べられた。

隣国の韓国では新年早々から、大統領を弾劾する憲法裁判が開かれたが、大統領が出廷しなかった。この国には憲法はあるのだろうか。、一方、釜山では日本総領事館前に、国際法に反して慰安婦像が建てられ市民が騒いでいた。一昨年の日韓の”最終合意”で、わが国はすでに”従軍慰安婦”と称する女性に慰安金を支払い始めている。当然、この合意に従って、ソウルの大使館前の慰安婦像は撤去されると期待したが、逆に新たの像の建立だ。

安倍総理は旧臘のハワイ真珠湾慰霊式で”寛容”の心を説いた。"最終的不可逆的”の合意に反する合意に反する行為に出ても”寛容”な心で許そうというのであろうか。煽動するわけではないが、本来ならば、韓国の大使館前に群衆が押しかけて、シュピレヒコールぐらいあってもよいと思うのだが、めでたさ一杯の”おらが春”の日本である。

まじかに迫った 人生百年時代の戦略

2017-01-03 05:36:15 | 2012・1・1
拙ブログの10年来のコメンテーターのchobimameさんから頂いた新年の挨拶の中で、「life shift 100年時代の人生戦略」という題名の本を紹介頂いた。chobimameさんによると、この本は人間の寿命が、毎年3-4分で1人増えていると指摘、20007年生まれの50%は109歳まで生きられると予測して100年時代に備え、人生戦略を立てるべきだという。これが本の主旨のようである。

確かに超高齢化時代が始まっている。今年、僕が頂戴した年賀状には90歳以上が4人おり、うち3人は大正1ケタの従軍世代である。最高齢は99歳で、賀状にそれが書いてある。いずれも2002年に僕が「大東亜戦争とインドネシア」という本を出版したさい、聴き取り調査でお世話になった方々である。最高齢のMサンは、西カリマンタンのポンチアナの虐殺事件に巻き込まれ、戦後1年間も無実なのに刑務所に入れられていた。Gさんは北スマトラ.アチェのインド洋海岸基地で義勇軍の中隊長をしていた。また、Tさんは豪北のアンボン島の砲兵陣地で隊長をしていた海軍学徒兵である。

旧臘、僕は102歳と97歳の同じ戦争体験を持つ先輩の訃報を受けた。戦後70年経ち、仕方がないのだが、一方、周りを見渡すと戦地体験のない、僕ら昭和1ケタ世代もすでに80歳半ばを超え、石原慎太郎さんのように元気な人が多い。お蔭で僕もその一人で、現役世代には申し訳ないが、60歳から四分の一世紀、25年も年金を頂戴している。僅か30年前にはサラリーマンの定年は55歳だったのである。100年時代、やはり、国も個人もそれに相応した戦略を、この本のようにたてるべき時代なのかもしれない。


変わってきた東京の元旦 初詣

2017-01-02 05:46:54 | 2012・1・1

孫たちも成長して、ここ数年恒例になってしまった老妻と二人だけの新年の宴をお屠蘇(とそ)で祝った。そのあと友人知人から送られてきた賀状に目を遠し、お昼すぎ、新しく頂戴した方へのお返しを出しながら郵便局へ出かけたが、昔の日本のあの独特のな元旦風景はなかった。戦前の「1月1日」の歌詞には”松竹たてて門ごとに”とあったが、門松の家はほとんどなく、代ってクリスマスの飾りのようなオーナメントの家やポスターだけの商店もあった(写真)。

昔と変わったのは、初詣風景だ、郵便局へ出かけた後、足を延ばし地元の氷川神社へ参拝したが、一の鳥居から社殿までの沿道は参拝客が列をなしていた。(写真)戦前から初詣はあったが、東京で言えば明治神宮とか靖国神社といった有名な神社だけで、家の近くの鎮守の杜へ昼間詣でる風習はなかった気がする。とくに、戦後すぐの時代には、食べるのが、精いっぱいで信仰どころではなかった。

70年前、昭和22年1月1日の亡父が残した日記には”曇り日の元旦こそは日の本の今の姿をありのまま”と下手な自作の歌が添えられている。明治17年生まれ、毎月1日と15日には近所の神社に詣でていた父だが、この年は曇り空だったこともあってか、初詣の記述はない。

戦時中、この戦争は最終的には「神風」が吹いて日本が勝利すると固く信じていた僕らの世代は、敗戦はショックだった。そのためか”神も仏もあるものか”といった”信仰心の薄い世代である。昨日も初詣の列を見ると、僕ら老人よりは若い男女が多く見かけられた。

戦前の元旦と現在の最大の変り方は、国旗「日の丸」が見られなくなったことだ。戦前は門松と同じように翻っていた「日の丸」が東京の空からは消えてしまった。最近までは、都内を走るバスに「日の丸」が飾られていたような気がするのだが。これも”昭和は遠くなりにけり”現象なのだろうか。