★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

親の形見

2021年01月24日 21時23分55秒 | 徒然(つれづれ)
 最近ではあまり聞かないが、親の形見なんて言葉がある。
 例えば古い腕時計だったり、筆記具や指輪だったり、帽子やマフラーだったり、人それぞれに思い出の品はあるだろう。

 私の両親も、それぞれ15年から20年前に他界した。
 死に目にも会えず、親孝行もせずじまいだった。
 実家も引き払い、両親の遺品やアルバムなどは、弟が保管しているようだ。

 子供の頃はよく見ていた白黒写真だらけの両親のアルバムも、もう長い事見ていないので、その顔さえ記憶の底で薄れてしまっている。
 当然、形見や遺品などは持っていない。

 しかし、待てよ。
 ひとつだけ形見と言えるものが手元にあった。
 それはアコースティックギターだ。

 1973年4月、私が九州の田舎を離れ、京都の大学に入学が決まり、入学式の日だ。
 付き添いの母親と、四条河原町に出た。
 入学祝いに何か買ってあげようという母親にねだったのが、そのアコースティックギターだ。

 四条河原町の角に当時プラザー楽器店というのがあった。
 フロアに並んだフォークギターやクラシックギターと一線を画すように、そのギターは壁に吊り下げられていた。
 ギブソンのジャンボタイプのコピーで、サンバーストのボディカラーに、螺鈿細工を施したピックガードが燦然と輝いていた。
 迷うことなく、そのギターを所望した。
 お値段35,000円で、1ヵ月分の仕送りに相当した。

 入学と同時に入会したフォークソング同好会では、そのギターを弾きまくっていた。
 以来、48年にわたり、私のギターライフの相棒として活躍してきた。
 今までに何本かのギターを買っては手放してきたが、そのギターだけはなぜか手放せなかった。
 考えたら、それこそが母親の形見と言えるのかもしれない。


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