自己受容について
自己受容の段階の中で、自分の両親を受容するファクターにおいての話。
ちとややこしいけど、考えた。
知人がこんなことを言っていた。
考えさせられた。
なるほどねとも思う。
両親への気持ちの解放。
本当は愛してもらいたいし愛したい人を、憎んで憎んで憎みきれなかったのは、愛されていない悲しい現実に向かえないからだった。
この現実を受け入れていたなら、もっと率直に憎んで、それに飽きて、それから相手の価値観を理解しようと努め、何か分かることがあったんだろう。
相手が自分と似ていると、妙に庇いたくなる部分もあったりして、憎みきれない。自分を憎むのに似ているからだ。
自分を否定するときって吐き気がする感じがあるけど、身内なんかの悪口言う時も同じ。本当に家族って、客観視できない存在なんだと空恐ろしい。
人ひとりを徹底的に憎みきる、なんて難しい。でも、憎むことが悪であるから、自分を楽にするために相手を「少しはいい人」認定してしまうと、問題はこじれる。
憎んだらいいと思う。許すまじ、それくらい自分の感情を大事に味わい尽くすことが先決だと思う。愛はその先にある。
自分の両親が自分に対して、実は意外とひどかったり、そのくせ気まぐれには優しかったり。人間だからたくさん失敗も後悔もしているということも含めて、理解し受容をする時、陥りやすい罠。
それは、何処かで親を無意識にかばい、親に対するマイナスな感情を解放できないということがある。
まずはある部分、親のその時の行動や対処を憎み、その怒りを自分なりに咀嚼し、そのあとで両親の立場になってみる。両親はどうしてその時
そんな行動をしたのか想像して行く。
多くの場合、実は想像がつく。実は気がついてもいる。そのことを整理して行く。そして…さらにその原因を突き詰めて行くと。なんというか、「皆がその時はその人なりに精一杯だったんだな」ってわかってくる。良くも悪くも。
そこまでわかるといい。いつのまにか解放できた怒りは離散して行く。
そう思う。
そのプロセスの中でハードルが高い部分。「トラウマになっている事実を受け入れて認められるか」「いかに実の親を憎むか」「実の親の立場で考えられるか」ということ。
おそらくはこうした連鎖は、いろんなところで起きていて、家族だけではなく、会社組織でも社会の仕組みとしても起きている。
事実を認め、原因を特定して気持ちを出し切り、その時の相手の立場に立ちながらその根源を突き詰める。
いろんな場面につながる考え方かなと思うのだ。
ふぅ。
こんがらがる。
自己受容の話。
いろんなところで苦しんでいる人がいる。障害をもって生まれて来た子供達は、さらにそのリスクがますように思う。
だからこそ
我が娘には自己肯定感を
そう思ってやまない。