Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Village Design 35. 中甸・松賛林寺

2007年12月06日 | field work
 松賛林寺は、標高3,200mだから階段を上がるのは、少し息が切れる。振り返ると周囲は、起伏の緩やかな高原の景観である。ここの僧侶達は、この風景を見て毎日暮らしている。彼等が日常見ている風景はどんなであろうかと私は想像していた。実際この写真ではのどかな田園風景かもしれないが、日々地平線から立ち上がり、沈んでゆく朝陽や夕陽を眺めることができるし、冬の積雪時には、雪原に太陽の光を反射するだろう。また砂塵が舞って薄く霞むこともあるだろう。そんな洞察力が必要である。
 通例私達が旅をしながら見ている風景は、特定の時期の、特定の時間に見えた1風景でしかない。従って、方位を見定めて、季節変化の情報を加味しながら、また時間変化によって変わるであろう風景を想像し、今私が見ている眼前の風景と重ね合わせる努力が必要になる。風景を見るということには、想像力と洞察力を伴うということである。こうした風景の見方がランドスケープ・デザイン流といっておこう。
 長く写真を撮影していると、場所こそ違うが気象条件や、それによって変わってくる風景の変化を体験している。そうした体験を基に類推しながら、今私が見ている風景に、異なる風景を重ね合わせてゆくことは、比較的容易なことである。
 というのも撮影に出かけるときには、事前に地形図と天気図とを見比べながら、どの方向に何時に陽が昇り、その照り返しがどこに映るか、 或いは雪の日に、空気が澄んだり雲ったりしながら、どのように光が反射し、そして影ができるか、或いはできないのか、 といったことを、頭の中でシミュレーションしながら、撮影方法を用いるかを決めなければならない。もちろん当たりはずれがあるのは当然だが、目論みという意識がなければ、撮影もデザインもできない。
 こう考えると撮影の目論みと、ランドスケープ・デザインの意図とはどこかで、一致している点があるといえる。もちろんこんなことは、常日頃自分達が住んでいる土地や地域や国といった、自分達が暮らしている外側の世界に対する観察と関心がない人に説明したところで、なんのことかわからないだろう。実際自分のことや自分達が住んでいる土地のことしか興味がない人は多い。もちろんそんな人達は、デザインをしてゆく能力(好奇心や感性や洞察力など)がないのだから、私の視野には入らない。
 
Google Earth表示:北緯27度51分,東経99度42分
 
1999年9月撮影
Canon EOS3.F3.5-5.6/EF28-135mm.コダクロームⅡ.
Nikon CoolScan3.
CanoScan9950F
コメント
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