Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

PEN LIFE1342. 現代語の言い回し方

2016年07月16日 | diving
 魚眼レンズだから必要以上に周囲のエレメントがうつる。そこでトリミングが必要だ。同じ位置で昨日の画像はトリミング後、今日の画像はノートリミング。トップライトから透けてみえる青空を強調したければ今日の画像。続けてみれば映画で後ろにカメラが下がってゆく案配か。
 画像を見ながら次回はこう撮ろうと考えていても、いざ潜るとそんなことはできないことを思い知らされる。まあいつも成り行きまかせ。
 それにしても青の洞窟をめざしてシュノーケリングでヒタヒタと先頭をゆくダイバーは格好いいじゃないか。腰の大きさからしてお姉ちゃんインストラクターと推測する。それに引ひきかえ後ろの4人組は笑える格好だ。やはりスポーツは訓練を積んで動作が決まってこないと格好が悪いよな。
 ふと思うのだがダイビングもそうだし車に乗るときもそうなのだが「命を預ける」という現代語的な言い回し方がある。 自分の努力は捨てておいて、あまにも他力本願な言葉である。 私は、これは概念として外れていると判断している。
「はい、命預けているんだからあんたはしっかり運転しなさいよ」といわれたら、私などは「別に他人の命を預かろうという意識はないですから、無理して乗らなくていいですよ」と答えてしまう。そう考えるとこの言葉は、どこか命令形のニュアンスを含んでいる。こちらとしては命令される立場にはない。英語で言えば、”support”とか”leave”だろうけど、命を預けるという概念自体がない。精々生命維持をサポートするぐらいの概念だ。つまり生命維持の基本は人間にあり全て自己責任なのである。それを機材や機器がサポートしてくれると理解したほうが正しい。
 仮に生命の維持を他力本願にしたら・・・と想像すると、それって!、一寸怖いんじゃないですか。他人が私の命を勝手に動かす!?、それじゃ私はロボットだよな。
 つまり他人に命を預けることなど論理的にはできないのだが、無意識のうちに選択する自由を捨てて他力本願にしがみつく。現代語は、時々私という主体性を放棄した珍奇な言い回し方が登場する。私は、そういう珍奇な世界には近づかないようにしている。

恩納村真栄田岬青の洞窟
OLYMPUS OM-D  E-M1,M.ZUIKO DG FISHEYE8mm/F1.8
ISO200,露出補正-0.3,f5,1/640
コメント
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