脚本家の向田邦子さんが「水羊羹」というエッセイで、自分は水羊羹評論家がふさわしいと書いている。切口と角に始まり、宵越しをさせてはいけない、固いのは下品であり黒すぎては困る、一度にふたつ食べるものではない等々、水羊羹の薀蓄の一端が並び、すだれ越しの自然光、クーラーよりも窓を開けた自然の風の中で、とライティングや空気にも気を配るほどの拘りようだ。そしてムード・ミュージックは・・・
ミリー・ヴァーノンの「スプリング・イズ・ヒア」が一番合うと。このエッセイが77年の「クロワッサン」に載ったときに、ヴァーノンの「イントロデューシング」が話題をよんだ。この時点ではアルバムはこの1枚しかなく幻のシンガーと言われ、ストーリーヴィルというレーベルの希少性も重なりオリジナル盤の価格が暴騰したという。このエッセイがきっかけで80年に国内で再発され、82年にオーディオファイル・レーベルから「オールド・シューズ」、86年には日本のソニーが「オーバー・ザ・レインボウ」をレコーディングしている。ストーリーヴィル・オリジナル盤が手の届かない値になったと嘆くマニアもおられるだろうが、向田さんのエッセイで幻のヴェールが剥がされたのはファンとして喜ぶべきであろう。
ジミー・レイニーのギターだけの伴奏で「スプリング・イズ・ヒア」をヴァースから歌いだし、デイブ・マッケンナがリチャード・ロジャースの曲に彩をつける。ロレンツ・ハートの歌詞に思いを込めて歌うヴァーノンは向田さんが表現したように、「冷たいような甘いような、けだるいような、なまぬくいような」歌声である。クリス・コナーに似た感じで、突き放すようなクールさがあるものの決して見放しはしない優しさもあり、その感触は程よい冷え具合で涼を呼び、喉を通るときに軽い刺激を与えるとがった角と、胃に納まったときに初めて感じるひとつだけ食べた満足感がある水羊羹に似ている。
「水羊羹」は「眠る盃」というエッセイ集にまとめられているが、「荒城の月」の歌詞「めぐる盃」を「眠る盃」と間違えって覚えたことに触れ、酒を愛した父に想いを巡らす。水羊羹の季節はまだ先だが、盃にぼんやりと映る月は「春高楼の花の宴」のようにまぶしく、春の訪れを告げているようだ。
ミリー・ヴァーノンの「スプリング・イズ・ヒア」が一番合うと。このエッセイが77年の「クロワッサン」に載ったときに、ヴァーノンの「イントロデューシング」が話題をよんだ。この時点ではアルバムはこの1枚しかなく幻のシンガーと言われ、ストーリーヴィルというレーベルの希少性も重なりオリジナル盤の価格が暴騰したという。このエッセイがきっかけで80年に国内で再発され、82年にオーディオファイル・レーベルから「オールド・シューズ」、86年には日本のソニーが「オーバー・ザ・レインボウ」をレコーディングしている。ストーリーヴィル・オリジナル盤が手の届かない値になったと嘆くマニアもおられるだろうが、向田さんのエッセイで幻のヴェールが剥がされたのはファンとして喜ぶべきであろう。
ジミー・レイニーのギターだけの伴奏で「スプリング・イズ・ヒア」をヴァースから歌いだし、デイブ・マッケンナがリチャード・ロジャースの曲に彩をつける。ロレンツ・ハートの歌詞に思いを込めて歌うヴァーノンは向田さんが表現したように、「冷たいような甘いような、けだるいような、なまぬくいような」歌声である。クリス・コナーに似た感じで、突き放すようなクールさがあるものの決して見放しはしない優しさもあり、その感触は程よい冷え具合で涼を呼び、喉を通るときに軽い刺激を与えるとがった角と、胃に納まったときに初めて感じるひとつだけ食べた満足感がある水羊羹に似ている。
「水羊羹」は「眠る盃」というエッセイ集にまとめられているが、「荒城の月」の歌詞「めぐる盃」を「眠る盃」と間違えって覚えたことに触れ、酒を愛した父に想いを巡らす。水羊羹の季節はまだ先だが、盃にぼんやりと映る月は「春高楼の花の宴」のようにまぶしく、春の訪れを告げているようだ。