歌詞のワンフレーズに「ラジオや電話や映画は淡い夢でいつかは消え失せるだろう」とある「ラブ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ」は、ジョージ・ガーシュインが未完成のまま亡くなったあと、弟子のバーノン・デュークが、「完璧な音楽家」と呼ばれた師の教えに基づき完成させたものだ。詩は勿論兄アイラの手によるもので、亡き弟を思いながら書いたといわれている。ラジオで僕たちの歌が流れなくなっても僕たちが生きた証は残るだろう、と。
アドルフ・マンジュー主演の映画「ゴールドウィン・フォーリーズ」のために書かれ、ケニー・ベイカーが歌ってヒットしたのは37年のことだから、発表されて70年以上経つが、今も歌い継がれているのは遺作という重みよりもその起伏に富んだ美しいメロディと未来を予言したような歌詞にある。当時は生活と娯楽を支えた必需品も、今ではラジオはテレビの影に隠れ、電話は本来の持つ機能から大きく変貌し、映画も斜陽の一途を辿ったが、タイトルの「僕たちの愛はここにある」だけは男女の普遍的な愛がある限り今も昔も変わらない。アンディ・ウイリアムスのこの曲が日本で紹介されたときの邦題「愛はいつまでも」のように、いつまでも歌われることだろう。
多くの歌手が取り上げているので名唱はいとまがないが、思わぬシンガーが歌っていて嬉しくなる。妖しい目元に甘い言葉で誘うような口元、そして大きく胸の開いたドレスとなれば迷わずのジャケット買いだ。さて肝心の歌だが、容姿とキャシー・バーという名前から勝手に想像してバーでグラスを傾けながら聴くまったりとした雰囲気かと思えば、そうではなく3オクターブ半という広い声域でドラマチックに歌い上げる。オペレッタで活躍していた人で、イタリアのテノール歌手、マリオ・ランザが推薦したことでRCAのこのデビューアルバムが作られたという。ピアノトリオをバックに小粋に歌っても、ゴージャスなオーケストラを背にソプラノ・ヴォイスで歌ってもガーシュインの曲は映える。
「いつかはロッキー山脈が崩れ落ちるかもしれないし、ジブラルタル海峡が崩壊するかもしれない」と歌詞は続く。地球規模で気象現象が大きく変わり、生態系が破壊され、未曾有の自然災害や大地震が発生する今の時代なら、アイラの予言ももしやと思うこともあるが、地球崩壊は歌の世界だけに留めたい。ガーシュインの遺作が地球の遺作にならぬよう願いつつ、珠玉のメロディと韻を踏んだ歌詞に浸りたい。
アドルフ・マンジュー主演の映画「ゴールドウィン・フォーリーズ」のために書かれ、ケニー・ベイカーが歌ってヒットしたのは37年のことだから、発表されて70年以上経つが、今も歌い継がれているのは遺作という重みよりもその起伏に富んだ美しいメロディと未来を予言したような歌詞にある。当時は生活と娯楽を支えた必需品も、今ではラジオはテレビの影に隠れ、電話は本来の持つ機能から大きく変貌し、映画も斜陽の一途を辿ったが、タイトルの「僕たちの愛はここにある」だけは男女の普遍的な愛がある限り今も昔も変わらない。アンディ・ウイリアムスのこの曲が日本で紹介されたときの邦題「愛はいつまでも」のように、いつまでも歌われることだろう。
多くの歌手が取り上げているので名唱はいとまがないが、思わぬシンガーが歌っていて嬉しくなる。妖しい目元に甘い言葉で誘うような口元、そして大きく胸の開いたドレスとなれば迷わずのジャケット買いだ。さて肝心の歌だが、容姿とキャシー・バーという名前から勝手に想像してバーでグラスを傾けながら聴くまったりとした雰囲気かと思えば、そうではなく3オクターブ半という広い声域でドラマチックに歌い上げる。オペレッタで活躍していた人で、イタリアのテノール歌手、マリオ・ランザが推薦したことでRCAのこのデビューアルバムが作られたという。ピアノトリオをバックに小粋に歌っても、ゴージャスなオーケストラを背にソプラノ・ヴォイスで歌ってもガーシュインの曲は映える。
「いつかはロッキー山脈が崩れ落ちるかもしれないし、ジブラルタル海峡が崩壊するかもしれない」と歌詞は続く。地球規模で気象現象が大きく変わり、生態系が破壊され、未曾有の自然災害や大地震が発生する今の時代なら、アイラの予言ももしやと思うこともあるが、地球崩壊は歌の世界だけに留めたい。ガーシュインの遺作が地球の遺作にならぬよう願いつつ、珠玉のメロディと韻を踏んだ歌詞に浸りたい。