昭和の時代にアンディ・ウィリアムス・ショーという音楽番組が放映されていた。いまでこそBS放送やインターネットで容易に海外の番組を楽しめるが、当時はアメリカン・ポピュラーの最先端に画像で触れる機会は少なく、多彩なゲストのヒット曲と主役のウィリアムスの甘い歌声が人気だった。その番組で聴いた「カナダの夕陽」に惹かれ、こんな壮大な曲を作ったのは誰だろうと音楽誌を捲る。
エディ・ヘイウッド、初めて知る名前だ。何年か後にビリー・ホリデイのファンが真っ先に挙げるコモドアセッションで、再びレコードにクレジットされた名前を見かけたものの、あの作曲者とは別人と思った。テディ・ウィルソンに似た感じで、やや線は細いとはいえ良く歌い、スウィングするジャズピアニストとあの曲はどうしても結びつかない。それは多分に白人が書くような曲というイメージと、ウィリアムスが黒人の作った曲を歌うわけはないという偏見が招いた恥じるべき誤解であった。1950年代といえば人種差別を拭えない時代ではあったが、音楽には差別がなかったのだろう。誰が作ろうと良い曲は良い曲なのである。
「ザ・タッチ・オブ・エディ・ヘイウッド」は57年にRCAに吹き込んだアルバムで、ヘイウッドのピアノを満喫できる。とは言っても45年にエスクヮイア誌で最優秀新人賞に輝いたころの閃きはなく、カクテルピアノに近いタッチだ。丁度、「カナダの夕陽」が売れたころの吹き込みということもあり、ジャズファンばかりでなくポピュラーファンにもアピールしようというレコード会社の狙いなのだろうが、そこはジャズピアニストとしての誇りを忘れない閃きのフレーズがちりばめられている。スタンダード中心の選曲だが、とりわけ「アイ・カバー・ザ・ウォーターフロント」が素晴らしく、44年にホリデイのバックで弾いた喜びや感動を想い出したのかもしれない。
ヘイウッドは「カナダの夕陽」の大ヒットで経済的には潤ったが、次第にポピュラーピアニストのレッテルが貼られジャズクラブの仕事は減ってくる。さりとてピーター・ネロやロジャー・ウィリアムスのように華やかな舞台に立つこともできなかった。そこにはポピュラー畑に進出できない黒人という壁があったことは否めない。波止場に寄せる波は大きく、返す波は小さいという。エディ・ヘイウッドの明暗を見るようだ。
エディ・ヘイウッド、初めて知る名前だ。何年か後にビリー・ホリデイのファンが真っ先に挙げるコモドアセッションで、再びレコードにクレジットされた名前を見かけたものの、あの作曲者とは別人と思った。テディ・ウィルソンに似た感じで、やや線は細いとはいえ良く歌い、スウィングするジャズピアニストとあの曲はどうしても結びつかない。それは多分に白人が書くような曲というイメージと、ウィリアムスが黒人の作った曲を歌うわけはないという偏見が招いた恥じるべき誤解であった。1950年代といえば人種差別を拭えない時代ではあったが、音楽には差別がなかったのだろう。誰が作ろうと良い曲は良い曲なのである。
「ザ・タッチ・オブ・エディ・ヘイウッド」は57年にRCAに吹き込んだアルバムで、ヘイウッドのピアノを満喫できる。とは言っても45年にエスクヮイア誌で最優秀新人賞に輝いたころの閃きはなく、カクテルピアノに近いタッチだ。丁度、「カナダの夕陽」が売れたころの吹き込みということもあり、ジャズファンばかりでなくポピュラーファンにもアピールしようというレコード会社の狙いなのだろうが、そこはジャズピアニストとしての誇りを忘れない閃きのフレーズがちりばめられている。スタンダード中心の選曲だが、とりわけ「アイ・カバー・ザ・ウォーターフロント」が素晴らしく、44年にホリデイのバックで弾いた喜びや感動を想い出したのかもしれない。
ヘイウッドは「カナダの夕陽」の大ヒットで経済的には潤ったが、次第にポピュラーピアニストのレッテルが貼られジャズクラブの仕事は減ってくる。さりとてピーター・ネロやロジャー・ウィリアムスのように華やかな舞台に立つこともできなかった。そこにはポピュラー畑に進出できない黒人という壁があったことは否めない。波止場に寄せる波は大きく、返す波は小さいという。エディ・ヘイウッドの明暗を見るようだ。