ジャズ誌で懐かしい名前を見つけた。久しくその名前を見ることもなく、忘れかけていたプレイヤーだ。大抵こういう場合、悲しいかな訃報記事だが、やはりそれである。その名前から反射的に、田舎のジャズ喫茶もどきに通い出した高校生の頃を思い出す。そのレコードはベースの長いソロから始まるのだが、単調なラインが少しずつ膨らむベース音は緊張や興奮時の心臓の鼓動に似ていた。
ベン・タッカーである。自身が作曲した「カミン・ホーム・ベイビー」は、ジャズを聴き始めの耳にもすんなり入り込むラテンリズムだった。このハービー・マンのヴィレッジ・ゲイト盤は大ヒットしたというが、タッカーのあのソロがなければただのライブ盤だったかもしれない。そして、ようやくジャズが解り出した頃にタッカーを聴いたのは、アート・ペッパーの「モダン・アート」である。オリジナルのイントロ盤を聴く機会はなく、ようやく聴けたのは70年代に再発されたときだったが、冒頭の「ブルース・イン」のアルトとベースのデュオで、何故このアルバムが幻の名盤と騒がれていたのかという謎が解けた。
タッカーの経歴を振り返ってみよう。デビューは、1956年のウォーン・マーシュの名盤として名高い「Jazz of Two Cities」だ。西海岸で働いたあと、59年にニューヨークに出て、さまざまなコンボで活動しながらクリス・コナーの伴奏も務め、62年にはクリスと共に来日している。帰国後、発表したのが「カミン・ホーム・ベイビー」で、マンのコンボでも活躍している。71年に引退後は楽譜出版業に携わり、ジャズクラブも開業し、マイペースで演奏もしていたという。半世紀にも亘る経歴を数行で語るには無理があるが、横道にもそれず、ただ直向にジャズの場に身を置いていたのがわかる。勤勉なジャズ人生である。
先般の記事には近影どころか第一線で活躍していた頃の写真も載っていなかった。記憶ではリーダー作は60年代に「Ava」レーベルから1枚出ているだけで、多くのサイド作品にも写真はほとんど載っていないので、このような編集だったのだろう。一瞬顔を思い出せなかったが、あの張のあるベース音だけは鮮明に甦った。顔を忘れられても音を記憶されるベーシストはざらにいない。享年82歳。合掌。
ベン・タッカーである。自身が作曲した「カミン・ホーム・ベイビー」は、ジャズを聴き始めの耳にもすんなり入り込むラテンリズムだった。このハービー・マンのヴィレッジ・ゲイト盤は大ヒットしたというが、タッカーのあのソロがなければただのライブ盤だったかもしれない。そして、ようやくジャズが解り出した頃にタッカーを聴いたのは、アート・ペッパーの「モダン・アート」である。オリジナルのイントロ盤を聴く機会はなく、ようやく聴けたのは70年代に再発されたときだったが、冒頭の「ブルース・イン」のアルトとベースのデュオで、何故このアルバムが幻の名盤と騒がれていたのかという謎が解けた。
タッカーの経歴を振り返ってみよう。デビューは、1956年のウォーン・マーシュの名盤として名高い「Jazz of Two Cities」だ。西海岸で働いたあと、59年にニューヨークに出て、さまざまなコンボで活動しながらクリス・コナーの伴奏も務め、62年にはクリスと共に来日している。帰国後、発表したのが「カミン・ホーム・ベイビー」で、マンのコンボでも活躍している。71年に引退後は楽譜出版業に携わり、ジャズクラブも開業し、マイペースで演奏もしていたという。半世紀にも亘る経歴を数行で語るには無理があるが、横道にもそれず、ただ直向にジャズの場に身を置いていたのがわかる。勤勉なジャズ人生である。
先般の記事には近影どころか第一線で活躍していた頃の写真も載っていなかった。記憶ではリーダー作は60年代に「Ava」レーベルから1枚出ているだけで、多くのサイド作品にも写真はほとんど載っていないので、このような編集だったのだろう。一瞬顔を思い出せなかったが、あの張のあるベース音だけは鮮明に甦った。顔を忘れられても音を記憶されるベーシストはざらにいない。享年82歳。合掌。