コタツ評論

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水木さん

2007-08-14 03:18:01 | ノンジャンル
先日、水木しげるの自伝的戦争体験をNHKがTVドラマ化していた。水木しげるは、僕はとか私は、というべきところをすべて、「水木さんは」と他者のようにいう。矢沢永吉の「YAZAWAは」という発語が同時代の若者に向けた自己顕示欲の表れなのに対して、つまり、我々が「レノンが」とか「クラプトンはさ」というのと同じ呼びかたをは自らに当てはめているのだが、「水木さん」の場合は著名なペンネームに対する距離感を表明しているように思える。

その距離のこっちが矢沢であり、あっちが世間とYAZAWAであるのに対して、「水木さん」の場合は、あっちが戦争と戦友(生き残った自分も、そのなかの一人である)という異同があるようだ。水木さんにとっては、いまも戦友たちは生きていて、ということは水木さんは半分死んでおり、だから半死半生者を呼ぶような「水木さん」なのかもしれない。「戦後10年くらいは人に同情することはなかった。死んだ兵隊がいちばんかわいそうだ」と水木さんは語る。不本意に生き残った者には、他者とは周囲や世間の人々ではなく死者なのだ。

水木しげるマンガの原作に忠実なTV化と思えるが、戦場の苛烈悲惨だけを描くのではなく、たとえば空腹のさなかに、実ったバナナを偶然に見つけて大喜びする場面など、人間の喜怒哀楽を率直に描いたいくつかの場面は素晴らしかった。どんなときにも、どんな場所でも、人間は人間の営みを止めない。それは人間は人間であることを止めないということだ。

もうひとつ、水木しげるは別の戦争マンガのなかで、「朝鮮ピー屋」についても描いている。それは従軍慰安婦の「性奴隷」派も「娼婦派」も黙らせる描きかただった。このTVドラマでも、玉砕を強いられる水木しげる一等兵たちは、最後に従軍慰安婦の歌を歌う。不確かな記憶だが、「嫌なお客を嫌いもせず、辛い努めも国のため」という文句だった。込み上げた。TV屋もバカにしたもんじゃない。

更新が遅れている

2007-08-14 02:32:45 | ノンジャンル
1週間に一度は、と思い決めているのだが、お盆休みの「節句働き」でままならぬ。

いずれは書きたいなという物件。

『幸福のちから』(DVDレンタル映画)。

レーガノミクスの光と影の間で悪戦苦闘するウイル・スミス。光側は、俗物の白人エスタブリッシュメントというのではなく、影側も心優しい貧乏人というわけでもなく、従来のハリウッド映画文法とは微妙に違う。

『グレート・ギャッツビー』(村上春樹新訳)。

影はけっして光には入れず、光が影に落ちることもない残酷な世界。後者の方がより残酷だろう。ギャッツビーが主役たる栄光は、伴奏者ニックによって担保されている。無惨な結末ではなくハッピイエンドと読むべきだろう。読了して、デイジーの背信とつまらなさに愕然とするから。ギャッツビーが登場する場面と退場した後の静寂が美しいから。

R・レッドフォードがギャッツビーに扮した映画は残念ながら未見だが、さすがに映画ではデイジーをこれほどひどく扱ってはいないだろう。小説では、デージーをわずか一行でトムと同類と片づけている。しかし、だからこそ、ギャッツビーが追い求めた幻影の悲しさが浮かび上がる。通俗小説に徹しながら高貴な魂を描ききった。恥ずかしながら、初読。