コタツ評論

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60万人の帰省ラッシュ

2010-02-16 16:47:00 | ノンジャンル
先日、学生時代の友人と久しぶりに新橋で待ち合わせ、烏森口に近い居酒屋で一献交わした。休日前の小雨降る宵の口。新橋駅周辺には、「ちょっと一杯」に口許を緩ませた安サラリーマンたちの傘と肩が接していたが、ちょっと驚くことに気づいた。誰もタバコを吸っていないのだ。吸い殻も落ちていない。例の路上タバコ監視員を見かけるわけでもないのに、大手町や丸の内のようにお行儀がよい。場外馬券売場やパチンコ屋の行列に見かけるような、崩れた雰囲気の男たちもいなくなっていた。

パンクロッカーみたいな銀髪になった友人が、いつのまにか「旅人」になっていたのにも驚かされた。シルクロードをオートバイで走破した話は仄聞していたが、オートバイ仲間のツアーに参加したもので、よくある熟年の気まぐれイベントだろうと推測していた。尋ねると、数年前には、南米10か国を一人でバス旅行したという。私より2歳年長組のはずなのに、学生のような貧乏旅行らしい。仲間内でもっとも早く結婚し、ゴミゴミした新橋の町のあちこちに、鼠の穴のような酒場やバーを馴染みとする彼が、そんな辺境へ放浪へ憧れる思いを抱いていたとは実に意外だった。

昔のことだが、私もブラジルやメキシコのサンパウロやグアダラハラなどを訪ねたことがあったので、南米バス旅行と聞けば、冷房もなく開け放した窓のオンボロな車体に、生きた鶏を抱えたインディオのおばさんが乗り込んできたり、乱杭歯にタバコを挿したストローハットの老農夫と隣り合わせたり、貧困が四輪タイヤを履いているような様子を思い浮かべ、「山賊やゲリラに襲われる危険があるだろう」と聞いたのだが、「全然、すごく快適なバスだったな」と彼はいうのだ。

翌晩、NHKBSのハイビジョン特集「60万人の帰省ラッシュ~ブラジル・長距離バスターミナル~」を観て、ようやく彼の話に「なるほど」と肯いたものだ。私が観たのは、2月6日に放映された番組の再放送だったようだが、たぶんまた再放送されると思うので、その機会にはお見逃しなく。受信料払ってもいいなと思ったくらいの好番組でした。



BRICs(ブリックス)の一角として、経済成長めざましくオリンピックの開催も控えたブラジルの首都サンパウロは建築ラッシュに沸き、地方の貧しい町や村から仕事を求める膨大な出稼ぎ労働者を集めている。彼らがクリスマス休暇の帰省に利用する南米最大のバスターミナル「チエテ(Tietê)」の様子を追ったドキュメンタリーである。

クリスマス前後のバスターミナルの利用者数60万人、バスの乗降ゲート100近く、バスの運転手2000人余、最長運行距離5000km以上、1日から3日もかけてブラジル各地へバスは走る。オンボロ乗り合いバスどころか、日本の長距離バス以上の最新設備、日本の鉄道オタクに似たブラジルの「バスオタク」の言によれば、「航空機以上に快適な車内」なのである。

ブラジルのクリスマスは夏。悪趣味な安物のTシャツや短パン姿の種々雑多な人々が、広大なバスターミナルを埋め尽くしている俯瞰撮影に、まず圧倒された。同じ光景を見たことがある。中国の正月である「春節」に、帰郷客でごったがえす北京や上海駅の様子を映した「23億人の大移動」という、同じくNHKのドキュメンタリ番組で、蟻のように蠢く人々を見た。

さらに記憶をたどれば、90年初頭に食糧不足の地方からモスクワ駅に蝟集した「ソ連」の人々を思い出させた。私は構内の回廊に上がり、フロアをほぼ埋め尽くした群衆をビデオカメラに撮影していた。国家がなかば崩壊して怯えた表情だった「ソ連人」たちが、終戦直後の「焼け跡闇市」に佇む日本人だとすれば、さしずめ中国人たちは、「戦後は終わった」という経済白書が出た高度経済成長期、ぬかるみの路地にセメント袋を運び込んでいた日本人に見え、ブラジル人たちは、東京オリンピックから万博の間、色とりどりの風船に眼を奪われていた日本人のように思えた。

いずれにしろ、肌の色や顔立ち、体形は違っていても、陽と風に晒された顔に、ときに屈託のない笑みを溢れさせる、かつては日本にもありふれていた人々が、TV画面のなかにいた。いま、渋谷駅前のスクランブル交差点を埋める通行人や、ラッシュアワーの池袋駅構内にひしめく乗降客たちは、生気に乏しい病者の群れのように見える。2009年の東京への人口流入は、5年前に比べて、32%も減ったそうだ。過去は過ぎ去ったが、未来はまだ来ていない。そんな同義反復の袋小路に私たちはいるようだ。



日本の23倍という広大な国土から、鉄道よりバス輸送が発達したブラジルでは、バスが貧乏人専用というわけではないようだが、やはり、「チエテ(Tietê)」に行き交う、貧しい人々の人間ドラマが胸を打つ。出稼ぎの目的を果たし、TVや家財道具まで引っ越し荷物ほどを積み込む中年男は、「サンパウロに未練なんてないよ。せいせいした。早く帰りたいよ。故郷の料理は旨いからね」と晴れやかな表情。「まだ、帰りたくないが、仕事が見つからないから、仕切り直しだよ」と工事現場をリストラされ不本意な帰郷をする青年。まだ過去と未来を手放していない人々の、悲喜こもごもの横顔と後ろ姿をカメラは追う。

30代にも40代にも見える夫婦が印象的だった。
「疲れたわ。もう歩くのは嫌」
バスターミナル外の木陰に腰を下ろし、夫を見上げて妻は言う。
ビーチサンダルを履いて、ちいさなリュックしか持っていない妻は口角を下げ、いかにも不満げだ。禿頭に野球帽をかぶり、ランニングシャツに短パンの夫は、さかんに妻をなだめている。どうやら、バスターミナルまで歩いてきたらしい。サンパウロの農園の管理人夫婦として15年も働いたが、農園主が夜逃げをしたおかげで全財産を失い、故郷の村へ帰ろうとしているところだという。しかし、手持ちの金は一人分のバスの運賃にすら足りない。

「しかたがない。お前だけ途中まで行け。そこから先は歩いて、近くの町に着いたら、俺が連絡して誰か迎えに来させるから」
「あんたは、どうするの?」
「俺は、どうにでもなる」
「また、そこいらで寝るの?」
夫のポケットには、小銭しか残っていない。何やら夫にまくしたてて、妻は座ったまま動かない。一人で行けという夫の計画に反対しているのだ。ふて腐れた妻を残して、案内所や公衆電話に、忙しく歩き回る夫の汗だくの顔。とっくに万策は尽き、瞳は力を失っている。しかし、構内に福祉事務所があるのを教えられ、二人で相談に行く。そこで、近くに無料の宿泊所があること、そこに寝泊まりしながら仕事を探すことを勧められる。

カメラから去り際に振り返った妻が見せた、はじめての笑顔。やはり、まだ30代と思える幼さが口許に表れる。人が良いばかりに、15年も働いて得た家財や金のすべてを失い、住むところもなく路上に寝起きして、歩き通しに駅までたどり着いたところで、行く宛ても示せなかった夫を責めていた妻ではなかった。何より夫の身を案じ、二人が離ればなれになれば、今生の別れになりかねないことを予感し、その運命を拒んで緊張していたのが、解けた美しい笑顔だった。

バスターミナルには、福祉事務所だけでなく、帰省できない人々のために、クリスマスカードを代筆して郵送するボランティアのコーナーもある。無料だという。その一方で、誘拐した子どもの人身売買を防ぐため、親族の証明がなければ子ども連れは乗車券が買えないそうだ。

まだ若いバスの運転士は、こう言って胸を張り、番組は終わる。
「僕たちは、みんなの夢と命を運ぶ、この仕事を誇りに思っている」