コタツ評論

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世界一素敵な学校

2012-01-24 12:22:00 | ノンジャンル
高橋源一郎の「世界一素敵な学校」を読んで、アメリカ・マサチューセッツ州にあるサドベリー・バリー校のことを知った。ちょうど、いま読んでいるリチャード・ドーキンスのエッセイ集『悪魔に仕える牧師』(早川書房 垂水雄二訳 2004)でも、「これこそ教育なのだ」とイギリス・ノーサンプトンシアのオーンドル校が紹介されていた。

エッセイのタイトルは、「危険な人生を生きる喜び オーンドル校のサンダーソン」。2002年に、英・ガーディアン紙に掲載された。

私の人生は最近にいたるまで教育に支配されてきた。家庭生活には、Aレベル試験の恐怖が影を落していて、私は教師たちの会議で講演するためにロンドンに逃げ出した。汽車のなかで、翌週に私の母校でおこなうことになっていた就任講義「オーンドル講義」の準備のために、H・G・ウェルズの『偉大な教師の物語-オーンドル校のサンダーソンの生涯と思想についての簡潔な解説』という有名な表題をもつ伝記を読んだ。

この本は、最初はいささか常軌を逸しているように思われる表現で始まっている。「私がある程度の親密さをもって知っている人間のなかで、彼が最も偉大な人間であることはまったく疑問の余地がない」。しかし、これに誘われて、私は、かつての生徒だつた多数の無名の人々からなる委員会(シンジケート)によって書かれた(サンダーソンは、個人の評価を求めて努力することより、協力を信じていた)公式の伝記『オ-ンドル校のサンダーソン』を読むことになった。

今や私は、ウェルズが言わんとするところを理解した。そして私は、フレデリック・ウィリアム・サンダーソン(1857~1922)がもし、私がロンドンの会議で会った教師たちから、試験の抑圧的な効果と、試験によって学校の能力を測定することへの政府の強迫観念について学んだことを知ったら、ショックを受けたことだろうと確信している。若者たちが大学に入るためにくぐり抜けなければならない反教育的な試練に、彼は仰天したことだろう。

おっかなびっくりの弁護士たちに主導されたこと細かな「安全衛生基準」や、現代教育を支配し、生徒の関心よりも先に自分たちの関心を優先させる会計士たちに主導された学校別成績一覧表を、彼はあからさまに軽蔑したことだろう。彼は、バートランド・ラッセルを引用しながら、教育において競争や「独占欲」を何かのための動機づけとすることを嫌悪した。


昔々、エライ校長先生がいた。そんな話ではない。本文中にも触れられているが、サンダーソンは著名な教育者であっても、その思想や行動については、とっくに忘れ去られていた。ドーキンスがサンダーソンについて、2002年に書いたのは、日本に先行して進む英米の「教育改革」に異議を唱えるためだった。

オーンドル校のサンダーソンは、最後には、ラグビー校のアーノルドに次ぐ最も有名な教師となったが、彼はパブリックスクールの世界に身を置くような生まれではなかった。今なら、おそらく彼は、大きな共学の、総合中等学校の校長になつていたことだろう。彼の卑しい生まれ、北方のアクセント、そして聖職位をもたないことが、一八九二年に、小さく、荒れ果てたオーンドルの町に到着したとき、彼が見いだした古典的な「教師たち(ドミニー)」との苦しい闘いをさせることになった。

最初の五年間は非常に煩わしいもので、サンダーソンは実際に、退職願いの手紙を書いている。幸いなことに、それを投函することはなかった。三〇年後に彼が死んだときには、オーンドル校の生徒数は一〇〇人から五〇〇人に増え、科学と工学に関しては、全国で最高の学校となっていて、彼は、感謝の念にあふれた何世代もの生徒や同僚から愛され、尊敬されていた。より重要なことに、サンダーソンは、今日、緊急に留意すべきひとつの教育哲学を発展させた。


サンダーソンはやはり温顔の人だったようだが、かなり激しい気性の人でもあったようだ。ドーキンスは、サンダーソンの有名な格言のひとつとして、「腹が立つとき以外は罰してはならない」を紹介している。「腹立ちまぎれに生徒を(子ども)を罰してはならない」という説得力ある戒律とは反対である。サンダーソンは少なくとも、子どもに接する教師(大人)に聖人を求めていないことがわかる。

 私(サンダーソン-コタツ補足)は、「喜びに満ちた人生の秘訣は、危険な生活をおくることだ」というニーチェの意見に賛成する。喜びに満ちた人生とは積極的な人生である。それは、いわゆる幸福のような、だらだらした静的な状態のことではない。アナーキーで、革命的で、エネルギッシュで、悪魔的で、ディオニュソス的な情熱の炎が燃えたぎり、創造への怖ろしいほどの衝動に溢れるほどに満たされる。これこそが、成長と幸福のために、安全と幸福を危険にさらす人間の人生だ。

校長の発言としては激しすぎて、日本なら問題となっただろう。

彼の精神はオーンドルに生きていた。彼のすぐあとの後継者であったケネス・フィッシャーが、職員会議の議長をつとめていたとき、ドアをおずおずと叩く音がして、小さな生徒が入ってきた。「先生お願いです。ハシグロクロガラアジサシが川に来ています」。「ちょっと待っていてください」とフィッシャーは集まった職員にきっぱりと言った。彼は椅子から立ち上がり、ドアのところから双眼鏡で覗いてから、それをこの小さな鳥類学者に手渡した。そして誰しも、やさしく、血色のいい顔をしたサンダーソンの亡霊が、その後ろにたたずみ、ほほ笑んでいるという想像を禁じ得ない。そうなのだ、これこそ教育なのだ。あなたの学校別成績一覧表の統計や、事実を詰め込んだ授業概要、そして、無限につづく試験日程表などクソくらえだ。

英ガーディアン紙に掲載された原文は以下。
The joy of living dangerously
http://www.guardian.co.uk/books/2002/jul/06/schools.news

サンダーソンとオウンドル校については以下。
Frederick William Sanderson
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_William_Sanderson

Dockerblog: Sanderson of Oundle, my hero!
http://downesmichael.blogspot.com/2008/10/sanderson-of-oundle-my-hero_09.html

Oundle School
http://www.oundleschool.org.uk/

サドベリー・バリー校やオーンドル校の「感動的な教育物語」は、少なくとも2つのことを私たちに考えさせてくれる(すぐ感化されて翻訳調になっているな)。まず、競争を強いない教育はあり得る。もうひとつは、教育にはまず教師ありき。そこで、もっとも新しい日本の教育改革案を読んでみる。

大阪府教育基本条例案の教育理念
http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html

6.グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること

断っておくが、私は橋下徹大阪市長と「大阪維新の会」について、何か反対したいわけではない。引用したのは、この教育理念(というより教育目的だが)がごく一般的に通用しているという以外の理由からではない(もう翻訳鳥くらいになってきたな)。企業の採用パンフなどでも、よく見かける文言である(人材を商品とそのまま置換できるくらい汎通性が高い)。

ただ気になるのは、この短い文言が、明らかに世界の「グローバル化」と「国際競争」に勝ち抜くことを疑うことのない前提としていることだ。「グローバル化」に支配された世界と「国際競争」に駆り立てられている日本。そこから導き出されるのは、当然、競争に支配された教育であり、教師の熱情より、まず教育目的ありき、というものではないか。

それなら、新しくもないし、改革でもなく、「富国強兵」から「経済発展」と戦後にスローガンを代えはしたものの、ずっと続いてきたわが国の教育である。しかし、「世界標準で競争力の高い人材を育てること」ができていない。というならば、その結果を原因として、違った道を模索すべきではないかと思うのは、翻訳鳥ばかりではないはず。

サドベリー・バリー校やオーンドル校が、アイビーリーグやオックスブリッジに多数の卒業生を送り出すからではなく、「優れた教育」「成功した学校」といわれるのはなぜか。また、高橋源一郎がいうように、「教育こそ民主主義の核心」なら、子どもや教育と関係のない人にも、「教師の熱情にまかせて、競争を強いない」教育には、無関心ではいられない。

とはいえ、英文を読むのは骨が折れるし、ドーキンスが拠った公式の伝記『オ-ンドル校のサンダーソン』:Sanderson of Oundle(Catto&Windus,1926)だけでなく、サンダーソンに関する読みやすいサイト情報は多くはない。とりあえず、日本人としては、「ゆとり教育」が評価されないのはどうしてなのか? そのあたりが考える入口かもしれない。

(敬称略)




世論や市民感情は間違わないか?

2012-01-24 07:29:00 | ノンジャンル


陸山会事件で小沢3秘書に有罪判決を下した登石裁判長が辞職したというニュースを聴いたばかりだが、小沢一郎自身はいったん検察には不起訴とされながら、検察審査会の市民11人の判断によって強制起訴されている。

この1月10日には、「刑事被告人・小沢一郎」に対して、初の被告人尋問が行われ、「記憶にありません」という答えが印象をいっそう悪くしたのは否めない。と新聞やTVが解説し、国民もそれに肯くという「世論づくり」に、やはり小沢有罪は動かないなとあらためて思った。4月には裁判の判決が下される予定である。

陸山会事件で問われている政治資金規制法はもとより、法律や裁判の素人である私が、新聞やTVなどマスコミと同様に、印象で語ってよいのなら、小沢一郎が有罪か無罪かという以前に、陸山会裁判、小沢裁判とも、とても公正な裁判とはいえないのではないかという疑問を抱いている。

しかし、政治家をめぐる冤罪事件や誤判問題は、何も小沢一郎に限ったことではない。『知事抹殺 つくられた福島県汚職事件を著した佐藤栄佐久福島県知事やKSD事件で利益供与を受けたされる村上正邦元労相、収賄や議院証言法違反などで収監され、昨年12月に仮釈放された鈴木宗男元衆議院議員など、今日では、判決通りの罪状であったと受けとめられていない事例はけっして少なくない。

検察官も裁判官も弁護士も間違う。それはしかたがない。間違うことが前提とされているし、間違えば批判に晒され、その原因が究明されるという制度でもあるからだ。しかし、この制度外にあって、あたかも無謬のように扱われているのが、「世論」であり、それを構成する重要なひとつのファクターが「市民感情」だろう。

これまでの政治家をめぐる冤罪事件や誤判問題と小沢裁判との決定的な違いは、11人の市民によって構成される検察審査会によって、小沢一郎は強制起訴されて裁判になっていることだ。その検察審査会の判断そのものを疑う声はきわめて少ない。「世論」の代表であり、「市民感情」を代弁するかのように、検察審査会はアンタッチャブルといえる。

小沢裁判における「検察審査会」疑惑を、何故、日本のマスコミは追及しないのか?

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20120117/1326785863

ちょうど、悪魔に仕える牧師』(リチャード・ドーキンス 早川書房)を読んでいたら、「陪審裁判」についてのエッセイが収録されていた。検察の判断を市民が覆す検察審査会や発足したばかりの裁判員制度の下敷きとなった、欧米の陪審員裁判制度について、科学的に反対するものだ(72p)。

陪審裁判は、これまで誰かが思いついた名案のなかで、きわだって群を抜いた最悪のもののひとつであるに違いない。その考案者を非難することはほとんどできない。彼らが生きていたのは、統計サンプリングや実験計画という原理が確立されるずっと以前のことなのだ。彼らは科学者ではなかった。

陪審裁判は科学以前の制度だった!

(中略)話を法廷に戻せば、なぜ一二人の陪審員のほうが一人の判事よりも好まれるのか? 彼らのほうがより賢明であり、より知識があり、あるいは推論の技量により精通しているからということではない。

より知識があり、推論の技量により精通しているのは、もちろん、裁判のプロである判事(日本では裁判官)であるが、市民12人より賢明かどうか。

一二人の陪審員が一人の判事より好まれるのは、そちらのほうが数が多いというだけの理由からなのである。一人の判事に評決を下させるのは、一羽のヒナにセグロカモメという種全体について語らせるのと似ているだろう。頭は一つよりも三個あるほうがいいだろう。彼らは、証拠についての一二の評価を代表しているからである。

「三人寄れば文殊の知恵」の4倍である。

しかし、その主張が妥当であるためには、一二の評価が本当に独立したものでなければならない。もちろん実際にはそうではない。陪審室に閉じこめられた一二人の男女は、一二羽のカモメのヒナの群れのようなものだ。実際に彼らがヒナと同じように互いを模倣しあうかどうかにかかわりなく、そうする可能性があるのだ。それだけで、陪審員が一人の判事よりも好ましいとする原則を無効にするのに十分である。

ここでカモメが出てくるのは、セグロカモメのヒナが、親鳥の嘴の赤い斑点をつついて、食べ物を吐き戻させる習性をたしかめる実験例を引いて、その実験の正しい方法と落とし穴について、陪審制度にも当てはまる一般原則を導き出しているからである。

実際においては、くわしく報道されているように、また不運にも私自身が任務を果たさねばならなかった三度の陪審員体験から思い出されるように、陪審員は声の大きい一人ないし二人の人間によって大きく左右される。また、満場一致の評決に従わせようとする強い圧力が存在し、この点も、独立したデータという原則をさらに突き崩すものである。

当代きっての科学啓蒙家といわれるドーキンスにして、陪審員間の議論では、声の大きい者に負けたらしいところが可笑しい。

(中略)もし自分が有罪だと知っていたら、私はいいかげんなことを言い散らす陪審員団を選ぶだろう。無知と、先入観と気まぐれが多いほど、都合がいい。しかし私が無実なら、そして複数の独立した判決決定者という理想が無理であれば、どうか私を判事に委ねてほしい。

(敬称略)