コタツ評論

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炎上商法について

2018-09-24 11:24:00 | ノンジャンル
炎上商法の最新の成功事例は、もちろん、政治家の杉田水脈とライターの小川榮太郎でしょう。いや、彼らを起用して掲載号を完売させた『新潮45』と新潮社こそ筆頭に上げるべきでしょうか。

無名の彼らは一躍知名度を上げて得票や講演料をせしめ、その暴論や愚論は認知の対象に格上げされ、誰しも無視できない本音からの異議申し立てや、はてはいっぱしの異論・極論にまで粉飾されます。

はじまったとたん、炎上商法側はすでに勝利を収めているわけです。

杉田や小川らの言説を読むことは炎上商法に加担することにつながりますから、読むべきではなく、話題にするのも控えるべきです。と宣伝してしまう矛盾の人、かえって興味を抱いてしまう逆張りの人。

あえて炎上商法への反論や批判する立場の人でも、藁人形相手に人の道を説いていることを知る人、知らない人がいます。どちらがエライというのではなく、知ると知らないの違いは大きいのです。

眺めるべき読むべきは、そうした私たちの位置をたしかめる地図でしょう。それぞれの地図に、〇△×、レ点とでも書き込んでいけばよいわけです。

異邦人となって外国の地を歩くとき、私たちには地図が必要です。

欧米の都市や観光地など以外では市販の適切な地図を入手し難いものですが、たとえば雑貨店などに顔を突っ込み、「ミヤ~アップ!」と怒鳴るようにいってみるのも方法です(小さな声で、「マップ」などといっても通じません)。すると、現地語でまるで読めない地図が出てきたり、此処とは関係ない他所の地図をつかまされたりします。

そんなときは、迂遠に思えても、自分でおおざっぱな地図を描き、とりあえず知っている駅や店、歩いてきた道を描きこみ、後は人々に尋ね歩きたしかめながら作っていくのがひとつの方法です。

自分がどこへ行きたいのか、ということがわかっていて、はたしてそこへ行けるのか、について、知るために作る地図です。

炎上商法をめぐる地図ではそうはいきません。たいした目印があるわけでもなく、中心に思える杉田・小川は藁人形に過ぎず、いくら仔細に眺め検討しても、火をつければワラワラと燃え上がる藁束の寄せ集めです。火をつけた者はすでにいなくて、たとえ、いたとしてもどうでもよい存在です。

この地図に名前を付けるとすれば、前提として、この話題に興味関心を持つ人々は日本の読書人だということです。多くの批判派や反論者は、「国民間の差別意識」とか「LGBT」「マイノリティの権利」や「反知性主義云々」など、紙面活字の言論空間に拠ってきた、拠る人々がほとんどです。

いわば、「日本の読書人階層」の地図といえます。「炎上商法をめぐる日本の言論地図」とはしない、したくない理由については、これまでに繰り返し述べてきましたが、すでに重要な目印が記入されているからでもあります。

小川榮太郎文のタイトルがそれです。

政治は『生きづらさ』という主観を救えない

これはいうまでもなく、小川榮太郎ではなく、『新潮45』の編集部がつけたものです。たぶん、「文芸批評家」を任ずる小川榮太郎に忖度した発想からでしょうが、文芸書出版に伝統ある新潮社らしい見出し付けでしょ?というメタな気配りもうかがえます。

新潮社から著作を出している少なくない作家や著者たちから、新潮社の掲載責任を追及する発言が続出していますが、彼らを「刺激」することも織り込み済みなわけです。この「文芸的」に過ぎるタイトルこそ、「日本の読書人階層」地図の基準点です。

杉田・小川は藁人形に過ぎず、その言説は燃え上がるために供された藁くずに等しいように、その内容について、「論外」「話にもならない」「便所の落書き」と吐き捨てされる場合がほとんどです。

にもかかわらず、「どこがおかしい」「その通りじゃないか」「少なくとも排除されるほどではない」など擁護する声もネットには少なくなく、何より掲載号が「完売」している事実があります。

一方の批判派に、読書経験を重ねた「正論」や「常識」を当然とする旧来の読書人階層を置けば、もう一方の擁護派には、本どころか、字すら読まなくなった「読書人階層」を想定してみるしかありません。

言語矛盾を犯した飛躍ではなく、ネットの書き物を読むのは読書に入らない、字を読んだことにすらならない、という作業仮説を補助線として引いてみるわけです。

あけすけにいえば、「便所の落書き」の読み手(その一部は書き手を兼ねるのですが)としての読書人階層です。

いま公衆便所に「便所の落書き」を見かけることは稀になりましたが、かつては男女の性器や性行為を書き殴った稚拙で陰湿で汚い絵や文言がそこにはありました。

もちろん、「便所の落書き」だけの「読み手」がいるわけもなく、公衆便所から出れば新聞を読み、雑誌や小説本、仕事に関わる専門書も読む、ごく普通の「読書人」がほとんどでした。

この「便所の落書き」をネットに置き換えてみせれば、かつての無視すれば事足りた「便所の落書き」と今日のネットへの依存度や影響力が比較を絶していても、相互の背景、つまり「中の人」について、その差異を見分けるのはとても難しいでしょう。

人前ではとうてい言えない自らの欲望を吐露したり、満たそうとするに留まらず、「便所の落書き」には、すぐに、「ミセル」「ヤラセル」という男女の連絡先や住所を書くような悪質なものもありました。

そうした「人を貶めたい」という欲望の解放装置としてネットが機能している点、その延長上に「炎上商法」が成立していることについては、たいていの人は同意同感できるはずです。

では、

政治は『生きづらさ』という主観を救えない

が基準点とはどういうことでしょうか。

これは、すぐさま、

文学は『生きづらさ』という主観を救うもの

と言い換えられるものです。

つまり、「便所の落書き」へというより、「便所の落書き」の読み手である人々への架橋の言葉です。今日の「便所の落書き」であるネット言説の読み手が抱く欲求不満、その抑圧された欲望に、「生きづらさ」を感じている人々に向けて、「それは文学の役割」と手を差し伸べているわけです。

このタイトルをつけた『新潮45』の編集部を褒めているのではありません。社会と制度の過誤や不備による差別や偏見を社会で解決しようとするのではなく、文学への逃げ道を用意することの反動性はもちろん、文学を逃げ口上に自らの社会的な責任を回避しようとする卑怯を詰ることは容易にできます。

また、いうまでもなく、lGBTなど差別を受けたり抑圧を感じているという人々の悲鳴や怒りの声を「主観的」な『生きづらさ』と断じて、その正当性を毀損したいというダブルスタンダードな意図は、ほとんど露骨といえるでしょう。

ただし、それでもなお、この感受性に訴える一言によって、「便所の落書き」の読み手である人々がその視野に入っていることを示すには十分な効果があります。

「差別」や「LGBT」「マイノリティ」といった、汚れた便器やタイル床とは無縁な公衆便所以外からの「政治的な発言」が現実には無力である以上、私たちに必要なのはもっと切実な「政治の言葉」のように思えます。

しかし、日本の読書人の多くは、文学及び人文系の読書を蓄積してきた人々で占められます。彼らの「政治的な発言」がただ不慣れで下手に聞こえるとすれば、日本の社会科学が権力側の学問として学ばれてきた歴史と無関係ではないはずです。

「政治の言葉」は遠いのですが、では「文学の言葉」が近いかといえば、非政治的な言葉遣いと言い換えて、狎れ狎れしいほど距離感を失っています。『新潮45』の編集部と悪意と善意による違いはあれど、どこか逃げ道や逃げ口上として利用してきた、「文学師匠主義」は共通しているように思えます。

公衆便所の個室で勃起した一物を握りしめながら、落書きに目を走らせている、まぎれもない私たちの隣人である人々にまで届く、猫なで声ではなく、荒々しくドアを蹴破るようない力強い文芸の声をもっと近くで聴きたいものです。

ま、『新潮45』編集部は、荒ぶってみせたつもりだったかもしれません。

(敬称略)

くだくだしい長文におつきあいいただき感謝です。

お口直しに、アリサの「君よ 困難の河を渡れ」です。アリサはピアノも素晴らしいです。



(止め)
















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