”One thing I think the coronavirus crisis has already proved is that there really is such a thing as society.”「コロナウイルスの危機がすでに証明していると思うのは、社会というものが本当に存在するということだ」(ジョンソン英首相)
https://www.theguardian.com/politics/2020/mar/29/20000-nhs-staff-return-to-service-johnson-says-from-coronavirus-isolation?CMP=share_btn_tw
1987年、マーガレット・サッチャー元首相は雑誌のインタビューに応えて、「社会なんてものは存在しない」と言いました。イギリス伝統の個人主義を擁護する文脈からの発言で、同じ保守党のボリス・ジョンソン首相もこの姿勢を踏襲してきました。今回、自らも新型コロナウイルスに感染するなかで、この立場を翻す発言をしたわけです。ただし、サッチャリズム以降、金融立国に傾斜してきたイギリスですから、「個人主義」と「社会」という対置より、「市場」と「社会」がジョンソン首相の念頭を占めていたはずです。安倍首相たちの場合、市場以前、社会未満の「企業社会」くらいしか念頭になさそうですが。
一つの国が文明国家であるかどうかの尺度は、高層ビルや車の多さや(中略)世界各地で豪遊する旅行客の数ではない。唯一の尺度は、弱者にどう接するのか、その態度だ」(方方日記 2月24日)
https://toyokeizai.net/articles/-/340144
検索してみればわかりますが、方方はけっして、いわゆる「反体制作家」ではありません。彼女の「ささいな身辺雑記」を含む日記を批判してきたのは、「極左(中国では極右)」と「商売」や「仕事」で「権力に阿る」人たちでした。彼女の武漢ルポは明日の東京の姿ではないかと傾聴すべきものですが、中国の言論弾圧とそれを支える人々の様相はすでに現在の日本と変わりないようです。むしろ、政権に携わる人たちは、中国にこそ学んでいるのではないかという疑念を抱くほど、「やり口」は酷似しています。いや、権力の「やり口」なんてものはたいてい似通よるもんだよと冷笑的なその態度も、「彼ら」が用意した、社会を分断して紊乱させるステロタイプな言説ツールのひとつなのですが。
俺、逮捕されてみて判ったけど困った時に声をあげられる人と、あげられない立場の人がいるんだよね。そこに気づいて代弁してくれる人もいるんだけど、俺はその人達のことも知らなかった。無知ゆえに根性論と自己責任論ふりかざしてた俺が、今は全く見えてなかった人に助けられ救われてるんだよね。感謝(高地東生)
https://twitter.com/noborutakachi/status/1246612690497187842?s=20
本当に、たいていの根性論は根性が曲がったか腐ったか論であり、たいていの自己責任論は他と己の責任の区別がつかないタコ論ですね。この人は役者としてはなかなかわるくなかったので、再起してほしいものです。
今、コロナウィルスとの戦いと同時に全体主義的監視社会への誘惑とも戦ってる気がする。https://twitter.com/shillyxkotobuki/status/1246644588137156608?s=20
「誘惑されて捨てられて」というタイトルの歌か映画が昔ありました。本当の自己責任論というものはあるんです。
「誘惑されて捨てられて」を検索していたら、懐かしいピエトロ・ジェルミ監督・主演のイタリア映画「刑事」(1959年)のクライマックス場面と主題歌が入った動画がありました。もちろん、TVの「懐かしの名画」で視聴したのですが、クラウディア・カルディナーレが美しかった。「死ぬほど愛して(アモーレ・ミオ)」という主題歌を歌っているのはアリダ・ケッリです。
(敬称略)