オリンピック組織委員会の森喜朗会長が「女性差別発言」をめぐり、辞任を迫られる勢いで批判されている。
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と要約された差別発言とは、以下のようなものだ。
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」
「女性の優れているところですが、競争意識が強い。誰か手を挙げると『自分も言わないといけない』と思うんでしょうね」
「女性を増やす場合、発言の時間をある程度は規制しておかないと、なかなか終わらないので困る」
「組織委員会にも女性はいるが、みんなわきまえておられる」
女性が多い会議は、時間がかかる。女性は競争意識が強い。科学的な根拠があるのでも何らかの調査結果が出たわけでもない。森喜朗会長自身の見聞や周辺からの伝聞に過ぎない。
にもかかわらず、(女性の競争意識から議事進行のためというより、自己アピールのために発言の機会を求めるので、会議が長くなって迷惑だ)という含意が、JOC評議会の出席者たちから同感され、「笑い」を誘い場を和ませたのだろう。
彼らのホモソーシャルな組織の「紐帯」と、「女性理事」とはしょせん「なんちゃって」なのだ、という「蔑視」を確認できたからだ。
建築関連の職人たちの話を聞いていると、たとえば、「会社に言ったんだよ。なんちゃっては困る。プロを寄こしてくれって」とか、「あれはまあ、なんちゃって大工だから」「なんちゃって左官屋の手直しするくらいなら、派遣使って手元やらせたほうがまし」などという。
プロとしての技能に欠けるだけでなく、仕事への責任感が乏しい困り者を「なんちゃって」と呼んでいるらしく、後者により比重がかかっているようだ。
それをいう職人に、「差別だ」といえば、目を丸くするだろう。あくまでも仕事に対する評価だからだ。
一方、女性の場合、彼女の技能や責任感がどれほど高く強かろうと「なんちゃって」扱いされることが多い。これはまぎれもなく女性差別といえるのだが、差別する側はつねにそれを「評価jといい、けっして「差別」とは認めない。
当然、森喜朗会長に反省の二字はない。かえって批判に油を注ぐことになった「謝罪会見」時の言動や、会見後にTV出演した際の「撤回したほうが早い」といった発言をみても、そう断じてかまわないはずだ。
今夏の東京オリンピック開催の支障になるのを懸念しただけで、森喜朗会長は女性差別問題などにほとんど関心もないのではないか。彼にとって、政治的な現実とは、女性差別を撤廃するということより、撤廃をめぐって対立する諸派諸人を調整することだからだ。
女性差別だけでなく、差別を生み出す組織の構造 それを正す民主主義の不断の努力など、非制度的な良心や倫理に関わる人々の営為についても、関心外なのではないか。
むしろ、それこそ自民党政治家としての分別と振舞いであり、心構えと自負さえ覚えているのかもしれない。その淵源に思い至らないわけではない。
戦後30年(1975年)の10月、昭和天皇、皇后はアメリカを初訪問し、10月31日、これまた初の公式記者会見に臨み、以下のような質疑応答があった。
─天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」
戦争責任そのものを「公理」とは認めず、「文学方面」の「言葉のアヤ」と捨象して、論点ずらしが行われている。ならば、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という「文学方面」の「言葉の綾」を駆使した発言と矛盾するのだが、そこにあまり意味はないだろう。日米友好の一層に進展を願った、まさに「言葉の綾」であるからだ。
ここで天皇陛下自身が語っているのは、公理については語らないということだろうが、戦争責任については、昭和21年の小林秀雄の言葉も有名だ。
僕は馬鹿だから反省なんぞしない、悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいゝだろう。
敗戦の翌年の私人の発言と戦後30年の公人の最たる天皇の発言、そして森喜朗会長の発言には通底するものがある。それはホモソーシャルという外来語では捕捉できない、公理とそれを語る言葉への蔑視に表れる、同型の「反動性」に思える。
そうした反動性は、今回の森喜朗会長の性差別発言を批判する報道の側にも通底するといえよう。「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と同時に、森喜朗会長は「私たちはコロナがどういう形であろうと必ずやる」という発言もしている。
新型コロナの感染拡大がおさまらず医療崩壊が起きても、国民の生命や安全がどのような危険に晒されようとも、この夏の東京オリンピックを開催すると言明したのだ。
こちらのほうが、「女性が多い会議は長くなる」より、はるかに重大な問題発言のはずだが、報道の批判の矛先は「女性差別発言」一色だ。
森喜朗会長の進退のみならず、東京オリンピック開催の是非を追及できる決定的な発言を取り上げもせず、「オリンピック憲章が謳う多様性を否定」だの「海外からも批判が相次ぐ」「女性も発言を止めないで」など、「女性差別」についてさえ、まるで他人事の「逆風」報道でお茶を濁しているのはなぜか。
ひとつにはいうまでもなく、新聞TVなど大手メディアが東京オリンピック協賛企業であり、そのビジネスチャンスを当てにしているからである。
もうひとつは、沈静化にはほど遠い新型コロナの感染拡大、欧米に比べて遅れるワクチン接種など、先行きへの不安から東京オリンピック「不要論」に傾く国民感情のガス抜きが考えられる。
あるいは、森喜朗会長の進退まで問う批判報道から菅内閣の「政局化」を狙ったという見方もできるが、およそは東京オリンピック開催に向けた「忖度報道」ではないかと思える。
いずれにしろ、森喜朗会長の「女性差別発言」批判報道はメディアにとって名目にとどまる。
「戦争責任」についてさえ、「文学方面」の「言葉のアヤ」であり、東京オリンピック開催の国益を前にしては、「国民の生命や安全」がどれほど脅かされようと「支障」にならないのなら、「女性差別発言」などは、枝葉末節の片々たる字句の問題に過ぎないはずだ。
They Say Japanese Women from the 80’s Know This Song TikTok Compilation (Stay With Me-Miki Matsubara
竹内マリアの「プラスティックラブ」をはじめとする80年代のシティポップスが海外で人気を呼び、なかでも松原みきの「真夜中のドア stay with me」は世界47か国でヒットチャートベスト10入りという「大ヒット」だそうです。TikTok にはリバイバルヒットしたこの曲を娘から聴かされ、思い出していっしょに歌い出す50代~のママたちの姿がたくさん上げられているようです。
(止め)
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と要約された差別発言とは、以下のようなものだ。
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」
「女性の優れているところですが、競争意識が強い。誰か手を挙げると『自分も言わないといけない』と思うんでしょうね」
「女性を増やす場合、発言の時間をある程度は規制しておかないと、なかなか終わらないので困る」
「組織委員会にも女性はいるが、みんなわきまえておられる」
女性が多い会議は、時間がかかる。女性は競争意識が強い。科学的な根拠があるのでも何らかの調査結果が出たわけでもない。森喜朗会長自身の見聞や周辺からの伝聞に過ぎない。
にもかかわらず、(女性の競争意識から議事進行のためというより、自己アピールのために発言の機会を求めるので、会議が長くなって迷惑だ)という含意が、JOC評議会の出席者たちから同感され、「笑い」を誘い場を和ませたのだろう。
彼らのホモソーシャルな組織の「紐帯」と、「女性理事」とはしょせん「なんちゃって」なのだ、という「蔑視」を確認できたからだ。
建築関連の職人たちの話を聞いていると、たとえば、「会社に言ったんだよ。なんちゃっては困る。プロを寄こしてくれって」とか、「あれはまあ、なんちゃって大工だから」「なんちゃって左官屋の手直しするくらいなら、派遣使って手元やらせたほうがまし」などという。
プロとしての技能に欠けるだけでなく、仕事への責任感が乏しい困り者を「なんちゃって」と呼んでいるらしく、後者により比重がかかっているようだ。
それをいう職人に、「差別だ」といえば、目を丸くするだろう。あくまでも仕事に対する評価だからだ。
一方、女性の場合、彼女の技能や責任感がどれほど高く強かろうと「なんちゃって」扱いされることが多い。これはまぎれもなく女性差別といえるのだが、差別する側はつねにそれを「評価jといい、けっして「差別」とは認めない。
当然、森喜朗会長に反省の二字はない。かえって批判に油を注ぐことになった「謝罪会見」時の言動や、会見後にTV出演した際の「撤回したほうが早い」といった発言をみても、そう断じてかまわないはずだ。
今夏の東京オリンピック開催の支障になるのを懸念しただけで、森喜朗会長は女性差別問題などにほとんど関心もないのではないか。彼にとって、政治的な現実とは、女性差別を撤廃するということより、撤廃をめぐって対立する諸派諸人を調整することだからだ。
女性差別だけでなく、差別を生み出す組織の構造 それを正す民主主義の不断の努力など、非制度的な良心や倫理に関わる人々の営為についても、関心外なのではないか。
むしろ、それこそ自民党政治家としての分別と振舞いであり、心構えと自負さえ覚えているのかもしれない。その淵源に思い至らないわけではない。
戦後30年(1975年)の10月、昭和天皇、皇后はアメリカを初訪問し、10月31日、これまた初の公式記者会見に臨み、以下のような質疑応答があった。
─天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」
戦争責任そのものを「公理」とは認めず、「文学方面」の「言葉のアヤ」と捨象して、論点ずらしが行われている。ならば、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という「文学方面」の「言葉の綾」を駆使した発言と矛盾するのだが、そこにあまり意味はないだろう。日米友好の一層に進展を願った、まさに「言葉の綾」であるからだ。
ここで天皇陛下自身が語っているのは、公理については語らないということだろうが、戦争責任については、昭和21年の小林秀雄の言葉も有名だ。
僕は馬鹿だから反省なんぞしない、悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいゝだろう。
敗戦の翌年の私人の発言と戦後30年の公人の最たる天皇の発言、そして森喜朗会長の発言には通底するものがある。それはホモソーシャルという外来語では捕捉できない、公理とそれを語る言葉への蔑視に表れる、同型の「反動性」に思える。
そうした反動性は、今回の森喜朗会長の性差別発言を批判する報道の側にも通底するといえよう。「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と同時に、森喜朗会長は「私たちはコロナがどういう形であろうと必ずやる」という発言もしている。
新型コロナの感染拡大がおさまらず医療崩壊が起きても、国民の生命や安全がどのような危険に晒されようとも、この夏の東京オリンピックを開催すると言明したのだ。
こちらのほうが、「女性が多い会議は長くなる」より、はるかに重大な問題発言のはずだが、報道の批判の矛先は「女性差別発言」一色だ。
森喜朗会長の進退のみならず、東京オリンピック開催の是非を追及できる決定的な発言を取り上げもせず、「オリンピック憲章が謳う多様性を否定」だの「海外からも批判が相次ぐ」「女性も発言を止めないで」など、「女性差別」についてさえ、まるで他人事の「逆風」報道でお茶を濁しているのはなぜか。
ひとつにはいうまでもなく、新聞TVなど大手メディアが東京オリンピック協賛企業であり、そのビジネスチャンスを当てにしているからである。
もうひとつは、沈静化にはほど遠い新型コロナの感染拡大、欧米に比べて遅れるワクチン接種など、先行きへの不安から東京オリンピック「不要論」に傾く国民感情のガス抜きが考えられる。
あるいは、森喜朗会長の進退まで問う批判報道から菅内閣の「政局化」を狙ったという見方もできるが、およそは東京オリンピック開催に向けた「忖度報道」ではないかと思える。
いずれにしろ、森喜朗会長の「女性差別発言」批判報道はメディアにとって名目にとどまる。
「戦争責任」についてさえ、「文学方面」の「言葉のアヤ」であり、東京オリンピック開催の国益を前にしては、「国民の生命や安全」がどれほど脅かされようと「支障」にならないのなら、「女性差別発言」などは、枝葉末節の片々たる字句の問題に過ぎないはずだ。
They Say Japanese Women from the 80’s Know This Song TikTok Compilation (Stay With Me-Miki Matsubara
竹内マリアの「プラスティックラブ」をはじめとする80年代のシティポップスが海外で人気を呼び、なかでも松原みきの「真夜中のドア stay with me」は世界47か国でヒットチャートベスト10入りという「大ヒット」だそうです。TikTok にはリバイバルヒットしたこの曲を娘から聴かされ、思い出していっしょに歌い出す50代~のママたちの姿がたくさん上げられているようです。
(止め)