もっと笑えて可笑しい映画にできたはずだ。
場末の小料理屋で泥棒を働いた上に、それを咎められて狼藉までしでかそうとした夫に代わり、「出るところへ出て決着をつけるしかない」と息巻く小料理屋主人夫婦(伊武雅刀、室井滋)に詫びる、佐知(松たか子)の口上と三つ指ついた凛としたお辞儀が見事。歌舞伎座なら、「高麗屋っ」と屋号を呼びたいところだ。
夫の大谷(浅野忠信)が2年も勘定をためたあげく、大事な仕入れの金を眼前でわしづかみにされて逃げられた子細を聞くうちに、非現実的なまでの被害者ぶりに呆れ、思わず吹き出してしまう佐知につられ、笑ってしまうところがいくつかあった。この落語の世話物みたいな出だしのまま、語ってほしかった。
当然、冒頭の幼少時の津軽の思い出は要らない。この物語は、中野三鷹間の中央線沿線をおもな舞台にした、貧しい大谷夫婦の「東京物語」であるべきだった。津軽の風土とはまるで関係ない。昭和21年(1946年)の東京風景のセットに凝った意味がない。
松たか子の銘仙(たぶん)の着物姿(浴衣も含む)が美しい。匂い立つような若妻の色気と明るい笑顔に参らない男はいないだろう。そう美しくもセクシーでもない女優なのだが、着物と着こなし(着くずし)の威力というものだろうか。それだけでなく、若く美しい母の面影が重なるから、男にとっては抵抗しがたいのである。
「僕は怖い、怖いんだ」と妻佐知にむしゃぶりつき、身体をまさぐる夫大谷が幼児じみているだけでなく、それを見ている男児の明らかにセクシャルな視線をカメラワークは借りている。夫を受け入れる母のしどけない後ろ姿。隣の部屋からは、その半身しか見えない。浴衣のはだけた肩から腰に至る優美な線に眼を奪われる。
父によって犯される母を、視ることによって犯している幼児期の記憶。実際にそうした出来事や記憶があるかどうかは別にして、深い場所に刷り込まれている官能なのである。いまだ幼児でしかない男といまだ幼児である男によって、賛仰される母親が佐知という構図である。しかし、その聖母像に流れるところが不満なのだ。
「どうか、警察沙汰だけは待ってください」と盗んだ金が届くまで人質として小料理屋「椿屋」で働かしてくれと押しかける女房の機転。金が届く当てなどないのに、必死のその場しのぎ。実は似た者夫婦なのである。美人で気だてのよいお運びの「さっちゃん」の登場に、男たちがつめかけ繁盛する酒場と活き活きと働き出す佐知。
むさくるしい客たちのなかで、佐知に思いを寄せる工員の岡田(妻夫木聡)、弁護士の辻(堤真一)も、やはり健気に働く母を慕うかのようだ。大谷と佐知という不安定な夫婦の物語でもあったはずなのに、岡田との不倫を疑う大谷も、妻への憤りというより、自分だけを愛してくれるはずの母の裏切りに拗ねているようにしかみえない
四谷怪談のお岩と伊右衛門のような、嫉妬し嫉妬されるセクシャルな関係でありながら、必死の生活の伴走者であり、男児の父母であり、たがいを尊重する親友でもある。そんな複層する交わりを夫婦の可笑しみに昇華することも、どこかでできたはずだった。
佐知に纏わる視線が、母親と男の子の官能的な「肉体関係」を表すにとどまるから、辻に身を投げだす覚悟で、パンパンから入手した口紅を佐知がさす場面が、妻や母から女への変身を象徴せず、わざとらしい演出という印象を残してしまう。
「夫に心中された妻はどうしたらいいんですか」という佐知の問いかけも、「私、自惚れていました。あなたに愛されていると思っていました」という佐知の哀しみも、どこか空回りしてしまうのは、佐知と大谷がなかなか夫婦に見えないからだろう。
桜桃を分け合って食べる睦まじい姿も夫婦には見えず、「生きていけばいい」という佐知の言葉が夫婦の和解に向けたものではなく、つい母親めいた励ましに聞こえてしまうのは、佐知が大谷、岡田、辻と男女のエロチックな関係を結んでいないからだろう。
工員の岡田に大谷とのなれそめを尋ねられて、自らの万引き事件を自信に満ちて明るく語り出す鮮烈な佐知。万引きをする動機となった辻について、大谷と出会った後では、「どうして、あんな人が好きだったんだろうと不思議でした」とあっけらかんの佐知。
つまり、常軌を逸しているようで、実は世間の常識に囚われている大谷に対し、その大谷に付き添うという形で、すでに常軌を逸している佐知本来の可笑しさこそ、母子像を超えて夫婦像に近づく展開だったように思える。
行き場もなくガード下に佇み、手を握り合う佐知と大谷。30歳の声を聞く夫婦のはずだが、二人はまだ少年少女のように不安定だ。(私たちは、夫婦になれるのだろうか)という二人の心中の声が聞こえてきそうだ。なるほど、これは大谷夫婦の物語ではなく、夫婦の始まりの物語なのかもしれない。大谷に先んじて、一足先に大人になろうとしている佐知によって、「生きていけばいい」という自覚から始まるのだから。
私にとっては、「遠雷(1981)」以来の根岸吉太郎作品。松たか子以外にほとんど印象に残らないのは、はたして映画としては成功したといえるかどうか。大魚を逃した観がする。太宰治『ヴィヨンの妻』の映画化。文芸作品の映画化という期待値を裏切り、、副題の「タンポポと桜桃」だけでよかった気もする。
浅野忠信の朗読のような棒読みは、やはり気になる。「僕はずっと死にたいと思ってきました」なんてセリフを感情を込めては言えないだろうが、自虐的なセリフが可笑しみを誘うくらい、浅野忠信が大人の男の色気を出せればよかったのだが、ときに中学生のように少年ぽい。
どうして、浅野忠信は、正月みたいな着物を着っぱなしなのと?の娘たちも多いだろうな。堤真一の三つ揃いより、浅野忠信のよれよれの着物姿のほうがずっとかっこよいのがわかるといいな。どうせなら、ついでに、かっこよい股引姿もみせてほしかった。
暗く悲惨な貧乏物語ではない。タンポポの向日的な明るさと桜桃の清冽な官能を合わせ描いた、得がたい女性(女優)映画だった。松たか子には、ぜひ、『満願』の若妻も演じてほしいものだ。
「ゲゲゲの女房」の豊川「少年ランド」編集長が、やはり編集者の役でちょっと顔出しているのも嬉しい。もしかすると、この役をきっかけに抜擢されたのかもしれない。
(敬称略)
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