コタツ評論

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初恋のきた道

2013-04-14 18:35:00 | レンタルDVD映画


早起きしたら、CATVで「初恋のきた道」を放映していた。評判は聞いていたが、観る機会を逃していた。ほかに予定があったのだが、すぐに魅入られた。

この映画を観て、デイ(チャン・ツィイー 章子怡)の可憐に涙しなかったとしたら、あなたはもう人の心を失っているかもしれない。恋するルオの姿を追うデイの眼差し、含羞い、微笑み。雄弁な沈黙に満たされた、切ない表情や隠しきれない仕草の一つ一つを目撃するのだから、涙線がゆるむのは止められない。

細身ながら、意外にしっかりした下半身、すこしガニ股すら可愛い歩き姿。井戸で水を汲み、天秤棒で家まで運び、風呂を沸かし、炊事をして、布を織る。野山を駆け抜け、雪中をとぼとぼ歩き、花々や実りを愛で、落とした簪(かんざし)を必死に探し、町に続く道に佇む。ルオが村へやってきた道。

毎朝、学校へ通い、校舎の外からルオの声を聴く。生徒たちに自作の文章を朗読する響きのよい声、「人と生まれたなら志あれ」。ルオの笑顔に光る歯や高い肩、刈り上げた襟足の白さ、澄んだ瞳を想いながら、デイは聴き入る。動のうちに、静のうちにも躍動して止まらないデイの生命力。

いつしか、頬をつたう大人げない印を忘れてしまうのは、ただただ、少女のささやかな幸せを願ってしまうからだ。どうか、ひと目だけでもデイがルオを見ることができますように。そのとき、ルオがデイの視線に気づきますように。そして、ルオがデイに微笑みかけてくれるように、私たちは祈る。

驚くべきことに、これほど長い間、私たちは恋するデイの面差しや姿態を追っているのに、一瞬間も媚態を発見することはできない。あるいは、デイが恋慕の思いを口にすることは、言葉にすることはほとんどといってよいほどない。40年後、ルオに先立たれ、葬儀のために帰郷した息子に、漏らすまでは。

「身体にわるいからあまり泣くな」と息子に心配されて、老婆になったデイは、「だって、父さんがいないんだもの」と泣き崩れる。愛にかかわる言葉はたったこれだけ。中国の貧しい僻村に生まれ、祖母に育てられ、たぶん生涯村を出ることのない女の精いっぱいの言葉。小さな村の小さな女の小さな一生。

野辺の花のように、可憐な小品佳作、そんな素朴な印象を間違っているとはいわないが、じつに巧妙をきわめた映画でもある。

驚くべきことに、18歳にしてはまだ幼く少女と見えるデイが、チャン・ツィイーという女優とチャン・イーモウ(張芸謀)監督の完璧な造形であることだ。素人を起用したとは思えないが、素人に近い新人、あるいは達者な子役に、みごとに自然な演技をさせた。デイに没入しながら、そんな作為へ思いもよぎる。だが、そうではなかったことが後半に明らかになる。

ルオが町に去って村に戻れず、二人は2年間離ればなれ、会うことができない。ようやく再会の日、雪が降るなか、ルオが来る道に佇むデイ。マフラーを深く巻いて眼だけをのぞかせている。この瞳が、化粧をほどこしているというばかりでなく、憂いを帯びた女性の瞳なのである。

設定では、デイ18歳のときにルオと出会い、再会を待つ場面では20歳か21歳になっているはず。2年の時間が過ぎて、デイは成熟した女性となって、いきなり私たちの前に現れる。調べてみないとうかつなことはいえないが、うかつにいってしまえば、すでに成熟した女性であるチャン・ツィイーが、15、6歳に見える少女を完璧に演じてみせたのではないか。

そうだとすれば、この瞳だけのシーンは、老婆になったデイの現在に橋渡しするわけだ。つまり、少女が少女を演じては、この映画は成り立たない。少女の初恋だけでなく、恋愛と夫婦愛までを結ぶために、一瞬の瞳が必要だった。中国語のタイトルは、「我的父親母親」、英語では、The Road Home。

チャン・ツィイーばかり注目されるのは仕方がないが、老婆になったデイを演じたチャオ・ユエリン(趙玉蓮)も、勝るとも劣らぬ演技をみせている。ふつうとは逆に、大人の主演俳優に似た子役を探すのではなく、チャン・ツィイーに似た老女優をキャスティングしたのだろうが、顔つきや体つきだけでなく、前のめりにせかせかと歩き、頑固なまでの律儀さを寡黙に包んで、デイの老後の姿としてさもあらんと思わせる。

たぶん夫ルオに対すると同じように息子を心配しながら、しかし云うべきことはきちんと云う。自らの考えや信念を貫く、この老女デイの場面はごくわずかだが、少女デイに遡るかのように、優れたリアリティを全体に及ぼしている。さらに、老女デイの場面のおかげで、読み書きができない可憐な美少女を処女のうちに娶る物語に、もしや浅ましいファンタジーを見い出してはいないか、という男の疑念を振り払う救いにもなっている。

もちろん、デイがルオに惹かれたのは、学校や教育へ夢を抱いたからでもあった。文化や文明へ憧れを抱いたからでもあった。デイのルオへのひたむきな想いは、ルオを通してかいま見える、村の子どもたちの未来に寄せる希望、その非言語的な表現でもあった。ルオを支えることで、村の未来を実現するために働くデイ。

だが、デイが放つ千変万化の表情、身につけてきた姿勢や所作は、山野の厳しく美しい自然のなかで、家事や労働を営むうちに、培われ養われた、近代以前、教育以前の姿形や心映えでもあった。いまは失われたか、失われつつある、かけがえのない美しいもの。少女デイから、老女デイにつながり続いているもの。

デイとルオが暮らした村は、今も昔も貧しい僻村だが、現在をモノクロに過去をカラーで撮影された意図は、若く輝いていたデイとルオの青春を追憶するだけには、したがってとどまるものではない。脚本には書かれていないが、映像は中国が喪失した青春と故郷を追悼しているかにに思える。中国政府がよく上映を許したものだ。

チャン・ツィイーの可憐な美しさだけでなく、中国の山村の自然風景の色彩が鮮やか。井戸の水の揺らぎ、かまどの土肌の沈む照り、泡立つ鉄鍋と白い湯気、ネギ油を塗った餅やキノコ餃子などの料理、ほの暗い部屋の隅々、裁縫する指爪、機織りのきしみ、数々の暮らしの情景にも心動かされる。

そして、目も醒めるようなデイの赤い綿入れ。

(敬称略)

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