CATVで2回目の鑑賞。ウォーレン・ベイティ製作・監督・脚本・主演。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=483
破産して自暴自棄になった上院議員ブルワース(ウォーレン・ベイティ)は、自らに多額の生命保険を掛け、殺し屋に暗殺を依頼するが、週末までの命と焦って選挙運動で本音爆発というコメディ。黒人教会で黒人の自堕落な暮らしぶりをなじり、映画TV業界のパーティでユダヤ人の強欲を批判し、出陣式で大スポンサーの医療保険会社がアメリカの医療制度を潰して大儲けしていると暴露し、TVのニュースショーに出演すれば金持ちのためのメディアと笑いのめして、選挙戦は上を下への大騒ぎ。全米人気沸騰のブルワースは大統領候補にまで取りざたされる。そこに可愛いニーナ(ハル・ベリー)や謎の「殺し屋」がからみ、やけくそブルワースのアメリカ政治批判は覚えたてのラップに乗っていっそう加速していく。見どころはウォーレン・ベイティのラップなのだが、安倍晋三が河内温度を歌うようなものか。もちろん、まるで無様なのだが、だからこそ政治批判の真情が伝わるという仕掛けだ。
感心した点は、2つ。マイケル・ムーアが『シッコ SiCKO』によって、アメリカの医療制度の荒廃した現状を告発したドキュメンタリを公開した2007年に先立つ、1998年にこの映画が公開されていること。「ハンサムで血筋のよい女房がいる」というだけで凡庸な上院議員に過ぎなかったブルワースが、死の恐怖から気が狂って繰り出すラップによるアメリカ批判の主たる標的は巨大な保険会社である。ハル・ベリーと知り合ったおかげで黒人街をうろつき、麻薬の元締めのギャングL・D(ドン・チードル)からおなじみの人種差別批判をまくし立てられたときに、ブルワースは「問題は人種ではなく階級だ」と反論する。TVのニュースショーに出演したときは、「民主党も共和党も金の出所は同じ」といずれも金持ちのための政党だと指摘し、ラップに乗せて、「みんな怖れずにいおう~、ソーシャリズム(社会主義)を!」と歌う。さすが、ロシア革命を描いた『レッズ』(1981)を製作・監督・脚本・主演したウォーレン・ベイティの筋金入りの反体制派ぶりはマイケル・ムーアを上回る。
もうひとつは、ウォーレン・ベイティの激越なアメリカ批判は、インテリなら常識的なものだから、こうした映画が作れたのだろうと推測できる点だ。ブルワースがアメリカ批判をするとき、医療制度の欠陥、人種差別と貧困、メディアの偏向、政治の私物化など、すべて構造を示した上で具体的な指摘である。インテリだけかもしれないが、そこには共有認識があるということだ。俺たちの日本ではどうだろうか。『ブルワース』から『シッコ SiCKO』まで、少なくとも10年間の命脈を保つ問題意識が国民に共有されているだろうか。主義や信念は異なれど、知識階層に日本の問題がたちどころに10個挙げられるだろうか。俺は挙げられないと思う。それ以前に、自他共にインテリ・知識階層として、国民の問題に責任ある立場を引き受けようとする人々がいないと思う。庶民という呼称は嫌いではないが、メディアや政治の場で使われるとき、無責任なごまかし以外の何ものでもない。政治家や高級官僚、何10億ものギャラを得るTV司会者まで、自らを庶民と名乗って恥じない。わずかに天皇と皇族だけがそうはいわない。良心と責任感はどちらにあるだろうか。
アメリカには自他共に社会的影響力を自覚するインテリ層がいる。そのインテリ層では問題意識は具体的に共有されている。その2点に感心し、その2点が日本にはないと得心した。
ウォーレン・ベイティは偏屈で有名らしい。たしかにこんな映画をつくっては、ハリウッドを牛耳るユダヤ人やその上位の人々から覚えめでたいわけがない。たとえば、リチャード・ギアやマイケル・ダグラス、あるいはロバート・デ・ニーロがこれまで演ってきたような役柄は、俳優としての実績からみればウォーレン・ベイティにキャスティングされてもおかしくはなかった。本人は出たくもなかっただろうが。アカデミー賞の授賞式やショービズ関連のパーティなどでも名前が出たことがないと記憶する。こうした自らの信念を曲げぬ「変人」も日本で見ることは少ない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3
ただし、映画としては、2度も観るには値しない出来である。実は、『レッズ』もあまりよいとは思わなかった。その率直な主張と勇気には敬服したし、それをブルワースの自虐的なコメディにした成熟したセンスには脱帽するが、ブルワース以外の人物は類型にとどまり、絵づくりに余裕がなく平板な印象を拭えなかった。2度ともたまたまCATVで放映していたのを観てしまったという次第。しかし、これも縁である。
クレジットタイトルが長い。すべての俳優とスタッフの名前を列記したようだ。こういうプロデューサーや監督は好ましい。そのなかに、フランク・キャプラⅢ世という名前があった。ウォーレン・ベイティは教養として「アカ」かもしれないが、やはりフランク・キャプラがやりたかったアメリカ人なのだろう。
http://www.geocities.jp/yurikoariki/capra
(敬称略)
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=483
破産して自暴自棄になった上院議員ブルワース(ウォーレン・ベイティ)は、自らに多額の生命保険を掛け、殺し屋に暗殺を依頼するが、週末までの命と焦って選挙運動で本音爆発というコメディ。黒人教会で黒人の自堕落な暮らしぶりをなじり、映画TV業界のパーティでユダヤ人の強欲を批判し、出陣式で大スポンサーの医療保険会社がアメリカの医療制度を潰して大儲けしていると暴露し、TVのニュースショーに出演すれば金持ちのためのメディアと笑いのめして、選挙戦は上を下への大騒ぎ。全米人気沸騰のブルワースは大統領候補にまで取りざたされる。そこに可愛いニーナ(ハル・ベリー)や謎の「殺し屋」がからみ、やけくそブルワースのアメリカ政治批判は覚えたてのラップに乗っていっそう加速していく。見どころはウォーレン・ベイティのラップなのだが、安倍晋三が河内温度を歌うようなものか。もちろん、まるで無様なのだが、だからこそ政治批判の真情が伝わるという仕掛けだ。
感心した点は、2つ。マイケル・ムーアが『シッコ SiCKO』によって、アメリカの医療制度の荒廃した現状を告発したドキュメンタリを公開した2007年に先立つ、1998年にこの映画が公開されていること。「ハンサムで血筋のよい女房がいる」というだけで凡庸な上院議員に過ぎなかったブルワースが、死の恐怖から気が狂って繰り出すラップによるアメリカ批判の主たる標的は巨大な保険会社である。ハル・ベリーと知り合ったおかげで黒人街をうろつき、麻薬の元締めのギャングL・D(ドン・チードル)からおなじみの人種差別批判をまくし立てられたときに、ブルワースは「問題は人種ではなく階級だ」と反論する。TVのニュースショーに出演したときは、「民主党も共和党も金の出所は同じ」といずれも金持ちのための政党だと指摘し、ラップに乗せて、「みんな怖れずにいおう~、ソーシャリズム(社会主義)を!」と歌う。さすが、ロシア革命を描いた『レッズ』(1981)を製作・監督・脚本・主演したウォーレン・ベイティの筋金入りの反体制派ぶりはマイケル・ムーアを上回る。
もうひとつは、ウォーレン・ベイティの激越なアメリカ批判は、インテリなら常識的なものだから、こうした映画が作れたのだろうと推測できる点だ。ブルワースがアメリカ批判をするとき、医療制度の欠陥、人種差別と貧困、メディアの偏向、政治の私物化など、すべて構造を示した上で具体的な指摘である。インテリだけかもしれないが、そこには共有認識があるということだ。俺たちの日本ではどうだろうか。『ブルワース』から『シッコ SiCKO』まで、少なくとも10年間の命脈を保つ問題意識が国民に共有されているだろうか。主義や信念は異なれど、知識階層に日本の問題がたちどころに10個挙げられるだろうか。俺は挙げられないと思う。それ以前に、自他共にインテリ・知識階層として、国民の問題に責任ある立場を引き受けようとする人々がいないと思う。庶民という呼称は嫌いではないが、メディアや政治の場で使われるとき、無責任なごまかし以外の何ものでもない。政治家や高級官僚、何10億ものギャラを得るTV司会者まで、自らを庶民と名乗って恥じない。わずかに天皇と皇族だけがそうはいわない。良心と責任感はどちらにあるだろうか。
アメリカには自他共に社会的影響力を自覚するインテリ層がいる。そのインテリ層では問題意識は具体的に共有されている。その2点に感心し、その2点が日本にはないと得心した。
ウォーレン・ベイティは偏屈で有名らしい。たしかにこんな映画をつくっては、ハリウッドを牛耳るユダヤ人やその上位の人々から覚えめでたいわけがない。たとえば、リチャード・ギアやマイケル・ダグラス、あるいはロバート・デ・ニーロがこれまで演ってきたような役柄は、俳優としての実績からみればウォーレン・ベイティにキャスティングされてもおかしくはなかった。本人は出たくもなかっただろうが。アカデミー賞の授賞式やショービズ関連のパーティなどでも名前が出たことがないと記憶する。こうした自らの信念を曲げぬ「変人」も日本で見ることは少ない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3
ただし、映画としては、2度も観るには値しない出来である。実は、『レッズ』もあまりよいとは思わなかった。その率直な主張と勇気には敬服したし、それをブルワースの自虐的なコメディにした成熟したセンスには脱帽するが、ブルワース以外の人物は類型にとどまり、絵づくりに余裕がなく平板な印象を拭えなかった。2度ともたまたまCATVで放映していたのを観てしまったという次第。しかし、これも縁である。
クレジットタイトルが長い。すべての俳優とスタッフの名前を列記したようだ。こういうプロデューサーや監督は好ましい。そのなかに、フランク・キャプラⅢ世という名前があった。ウォーレン・ベイティは教養として「アカ」かもしれないが、やはりフランク・キャプラがやりたかったアメリカ人なのだろう。
http://www.geocities.jp/yurikoariki/capra
(敬称略)
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