未読だったレイモンド・チャンドラーの代表作。村上春樹訳に惹かれた。読み進むうちに、漫画家の黒鉄ヒロシさんを思い出した。昔、ホテルオークラのオーキッド・バー(ん、たしかそんな名前だった。メインバーだ)で逢ったことがある。夕方の6時か7時頃だった。場所も時間も彼の指定だった。「開けたばかりのBARのきれいな空気が好きなんだ」と悪戯っぽい眼を向けた黒鉄ヒロシさんは、カフスがよく似合う、とてもダンディな人だった。『ロング・グッドバイ』を読んでいれば、「それじゃ、ご注文はギムレットですね?」そう返せたのに、残念ながらR・チャンドラーは食わず嫌いで一冊も読んでいなかった。
ヘミングウェイやハメットは読んでいた。ヘミングウェイはともかく、ハメットは味も素っ気もないとがっかりしたが、ハードボイルド小説の元祖なので、友人には「たいしたもんだ」と感心したふりをした。若い頃は物差しがへにゃへにゃなので、本家や元祖に弱いのだ。チャンドラーも立ち読みしたことはあったが、ヘミングウェイやハメットに比べると、フィリップ・マーロウの饒舌には違和感が先立った。もっと早く読んでおけばよかった。「開けたばかりのBARの空気が好きだ」という言葉は、フィリップ・マーロウと語らうなかで、テリー・レノックスが口にする言葉だ。磨き抜かれたダイアローグが惜しげもなく盛られている。饒舌すぎるとはバカの感想であった。
同名の映画があったのも、思い出した。よい出来だった。しかし、原作を読んでみると、エリオット・グールドのフィリップ・マーロウとは異色だ。他に誰が演っていたか、監督は誰だったか、あらすじも思い出せない。検索してみると、監督はR・アルトマンか、スターリング・ヘイドンは1億ドルの資産家ハーラン・ポッターだな。若き日のA・シュワルツネッガーも出ている。たぶん、役名はキャンディーだ。フィリップ・マーローものの映画といえば、R・ミッチャムが演じた『さらば愛しき女よ』という佳作もあった。シュワルツネッガーと似たちょい役・娼家の女将のツバメ役でS・スタローンが出演していた。原作に登場する魅力的な脇役すべてを出すわけにはいかないところが、このチャンドラー作品小説化の弱点だろう。
『キャッチ22』で共に売り出したドナルド・サザーランドはいまも活躍しているのに、エリオット・グールドは見かけなくなった。愛嬌のある表情が、映画の冒頭の場面にぴったりだった。たしか、映画版のマーロウは古いビルのペントハウスに住む。同居しているのは猫一匹。餌をやろうとして猫缶を切らしていたのに気づき買いに出る。同じビルに住む、いつも水着かホットパンツ姿のカリフォルニア娘たちに陽気にからかわれながら、軽く手を振ったりして外階段を下りていく。下りるにしたがって、背景がサンフランシスコの青い空と遠い雲から、白い陽光と明るい街並みが見えてくる。ところがいきつけの店にはいつもの猫缶がない。しかたなく別のを買って戻り、キッチンから猫を閉め出してから、いつもの空き缶に詰め替える。「ほら」と供するが、猫はたちどころに見抜き、尻尾をあげて憤然と立ち去る。グールド・マーロウのむさ苦しくも情けない苦笑い。
村上春樹の訳は素晴らしかった。村上春樹自身がこの小説を書いたように自然だった。その上、村上春樹の解説「準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」が読みでがある。傑作小説に批評といってよい長文の解説が付いて、2000円は高くない。解説のなかで、フィリップ・マーロウは人格ではなく、記号なのだと村上春樹は喝破する。探偵は意味するもので、登場人物たちそれぞれによって、意味されるものがマーロウなのだという。ちょうど内田樹の『寝ながら学べる構造主義』を読んでいるところなので、自我を仮説が代替する(この理解でいいのか?)、いわば構造主義的な構成に、この小説の独自性があるという村上春樹の見方には納得できた(もちろん、村上春樹は構造主義なんて言葉は一度も使っていないが)。
さて、テリー・レノックス。『ロング・グッドバイ』が他の追随を許さない、ミステリのある頂点を極めているとすれば、テリー・レノックスの造型にあることは一読すれば、誰しもわかるだろう。人格を持たない記号のフィリップ・マーロウでさえ魅了されてしまう、テリー・レノックスの謎と悲哀と闇(おっと、いかん。作中のベストセラー作家・ロジャー・ウェイドは三連の形容詞を「最悪のへたくそ」と罵っていたっけ)。夕刻のBARでギムレットのグラスを前にマーロウと静かに語り合うテリーの横顔の傷。過度な飲酒癖と女出入り、ホームレスになったかと思えば社交界のパーティに返り咲く振幅。ひ弱な印象なのに、その過去には暗黒街の男にも進んで一肌脱がせる貸しがある男。そのくせ、もしかすると野良犬にさえ道を譲るのではないかと思えるほど、誰に対してもきわめて礼儀正しく優雅に接する。しかし、自我や心はない。それを除けば、テリー・レノックスはハードボイルド小説のアンチヒーローの条件をほとんどすべて備えている。印象的な場面をテリー視点で読み直すのはさほど難しくない。テリーとマーロウのW主人公という点でも、この作品はお得である。
「ロング・グッドバイ」という言葉は、作品のなかには出てこなかった(はずだ)が、フィリップ・マーロウは最初からこの言葉を反芻しているかのようだ。「長いお別れ」には、いくつもの意味と登場人物たちそれぞれの思いが重なる。脇役がみな陰影深く、それぞれで一編の短編小説ができるだろうと想像させる存在感だ。とても主役や物語に奉仕する脇役ではない。ほんの少し登場する強面のマグーン刑事でさえ、ニック・ノルティに演らせたらと想像させ、いやそれは順序が逆で、マグーン刑事という造型が先で、後年のニック・ノルティに暴力刑事のキャスティングが振られたと考えるべきだろう。書かれていない物語と描かれていない登場人物が数倍も詰まっている。まるで10冊分くらいの大河小説を読んだような奥行きが感じられる。そんな登場人物たちとの別れが続くのだから、読み進むのが口惜しい。
そして最後の「ロング・グッドバイ」がマーロウに訪れる。胸を打つ別れの場面。乾いた抒情。「さよならを言うのは、少し死ぬことだ」。この言葉はチャンドラーのオリジナルではないことを村上解説で知った。黒鉄さんと『ロング・グッドバイ』について語りたかったな。いや、黒鉄さんはこの村上訳で読み返して、どこかであの悪戯っぽい眼を輝かせ、誰かと語っていることだろう。ライムジュースと半々のギムレットを含みながら。
ヘミングウェイやハメットは読んでいた。ヘミングウェイはともかく、ハメットは味も素っ気もないとがっかりしたが、ハードボイルド小説の元祖なので、友人には「たいしたもんだ」と感心したふりをした。若い頃は物差しがへにゃへにゃなので、本家や元祖に弱いのだ。チャンドラーも立ち読みしたことはあったが、ヘミングウェイやハメットに比べると、フィリップ・マーロウの饒舌には違和感が先立った。もっと早く読んでおけばよかった。「開けたばかりのBARの空気が好きだ」という言葉は、フィリップ・マーロウと語らうなかで、テリー・レノックスが口にする言葉だ。磨き抜かれたダイアローグが惜しげもなく盛られている。饒舌すぎるとはバカの感想であった。
同名の映画があったのも、思い出した。よい出来だった。しかし、原作を読んでみると、エリオット・グールドのフィリップ・マーロウとは異色だ。他に誰が演っていたか、監督は誰だったか、あらすじも思い出せない。検索してみると、監督はR・アルトマンか、スターリング・ヘイドンは1億ドルの資産家ハーラン・ポッターだな。若き日のA・シュワルツネッガーも出ている。たぶん、役名はキャンディーだ。フィリップ・マーローものの映画といえば、R・ミッチャムが演じた『さらば愛しき女よ』という佳作もあった。シュワルツネッガーと似たちょい役・娼家の女将のツバメ役でS・スタローンが出演していた。原作に登場する魅力的な脇役すべてを出すわけにはいかないところが、このチャンドラー作品小説化の弱点だろう。
『キャッチ22』で共に売り出したドナルド・サザーランドはいまも活躍しているのに、エリオット・グールドは見かけなくなった。愛嬌のある表情が、映画の冒頭の場面にぴったりだった。たしか、映画版のマーロウは古いビルのペントハウスに住む。同居しているのは猫一匹。餌をやろうとして猫缶を切らしていたのに気づき買いに出る。同じビルに住む、いつも水着かホットパンツ姿のカリフォルニア娘たちに陽気にからかわれながら、軽く手を振ったりして外階段を下りていく。下りるにしたがって、背景がサンフランシスコの青い空と遠い雲から、白い陽光と明るい街並みが見えてくる。ところがいきつけの店にはいつもの猫缶がない。しかたなく別のを買って戻り、キッチンから猫を閉め出してから、いつもの空き缶に詰め替える。「ほら」と供するが、猫はたちどころに見抜き、尻尾をあげて憤然と立ち去る。グールド・マーロウのむさ苦しくも情けない苦笑い。
村上春樹の訳は素晴らしかった。村上春樹自身がこの小説を書いたように自然だった。その上、村上春樹の解説「準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」が読みでがある。傑作小説に批評といってよい長文の解説が付いて、2000円は高くない。解説のなかで、フィリップ・マーロウは人格ではなく、記号なのだと村上春樹は喝破する。探偵は意味するもので、登場人物たちそれぞれによって、意味されるものがマーロウなのだという。ちょうど内田樹の『寝ながら学べる構造主義』を読んでいるところなので、自我を仮説が代替する(この理解でいいのか?)、いわば構造主義的な構成に、この小説の独自性があるという村上春樹の見方には納得できた(もちろん、村上春樹は構造主義なんて言葉は一度も使っていないが)。
さて、テリー・レノックス。『ロング・グッドバイ』が他の追随を許さない、ミステリのある頂点を極めているとすれば、テリー・レノックスの造型にあることは一読すれば、誰しもわかるだろう。人格を持たない記号のフィリップ・マーロウでさえ魅了されてしまう、テリー・レノックスの謎と悲哀と闇(おっと、いかん。作中のベストセラー作家・ロジャー・ウェイドは三連の形容詞を「最悪のへたくそ」と罵っていたっけ)。夕刻のBARでギムレットのグラスを前にマーロウと静かに語り合うテリーの横顔の傷。過度な飲酒癖と女出入り、ホームレスになったかと思えば社交界のパーティに返り咲く振幅。ひ弱な印象なのに、その過去には暗黒街の男にも進んで一肌脱がせる貸しがある男。そのくせ、もしかすると野良犬にさえ道を譲るのではないかと思えるほど、誰に対してもきわめて礼儀正しく優雅に接する。しかし、自我や心はない。それを除けば、テリー・レノックスはハードボイルド小説のアンチヒーローの条件をほとんどすべて備えている。印象的な場面をテリー視点で読み直すのはさほど難しくない。テリーとマーロウのW主人公という点でも、この作品はお得である。
「ロング・グッドバイ」という言葉は、作品のなかには出てこなかった(はずだ)が、フィリップ・マーロウは最初からこの言葉を反芻しているかのようだ。「長いお別れ」には、いくつもの意味と登場人物たちそれぞれの思いが重なる。脇役がみな陰影深く、それぞれで一編の短編小説ができるだろうと想像させる存在感だ。とても主役や物語に奉仕する脇役ではない。ほんの少し登場する強面のマグーン刑事でさえ、ニック・ノルティに演らせたらと想像させ、いやそれは順序が逆で、マグーン刑事という造型が先で、後年のニック・ノルティに暴力刑事のキャスティングが振られたと考えるべきだろう。書かれていない物語と描かれていない登場人物が数倍も詰まっている。まるで10冊分くらいの大河小説を読んだような奥行きが感じられる。そんな登場人物たちとの別れが続くのだから、読み進むのが口惜しい。
そして最後の「ロング・グッドバイ」がマーロウに訪れる。胸を打つ別れの場面。乾いた抒情。「さよならを言うのは、少し死ぬことだ」。この言葉はチャンドラーのオリジナルではないことを村上解説で知った。黒鉄さんと『ロング・グッドバイ』について語りたかったな。いや、黒鉄さんはこの村上訳で読み返して、どこかであの悪戯っぽい眼を輝かせ、誰かと語っていることだろう。ライムジュースと半々のギムレットを含みながら。