コタツ評論

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裏本時代

2007-08-05 01:55:00 | 新刊本
本橋 信宏 幻冬舎文庫

独立系写真週刊誌『スクランブル』創刊から休刊まで若き編集長をつとめた著者の回顧録。しかし、主役はそのスポンサーだったビニ本・裏本の帝王・村西とおる(本書では実名で登場する。後の芸名?「村西とおる」は一度も出てこない)である。

「大衆消費者社会にあっては、流通を制する者が資本主義を制する」と裏本の配本ルートでスキャンダル雑誌を流通させようとした、村西とおるという特異な人物像とその「革命的な」奮闘ぶりが読ませる。

「裏で稼いで表をひっくり返す」と広言する人は少なからずいたが、実際に仕掛け、なかばやり遂げるところまで近づいた人間はめったにいない。ダイエー中内功の「流通革命」を出版メディアの世界で村西とおるはやろうとしていた。

村西とおるは、「日本一の出版社」「日本一の雑誌」を創ることをめざし、「気後れするな。ダイナミックにやりましょう」と檄を飛ばしながら、その一方で、会社名を新潮社の新と集英社の英から取って新英出版と名づけたりする。「俺をなめてんのか」と『スクランブル』の秋本奈緒美の半端なお色気写真企画に怒って反対したりする。

ビニ本・裏本が衰退し、アダルトビデオが隆盛を迎える狭間で、独自の流通網を築く前に村西とおるの裏帝国は瓦解し、『スクランブル』はその命脈を断たれる。だが、当時、先行するスキャンダル雑誌として、盛名を誇っていた『FORCUS』や『噂の真相』にはほとんど触れておらず、評価めいたことすら書かれていない。

ルポライター志望だった、当時26歳の本橋信宏にとっては、いずれも憧れの雑誌であり、見上げるようなライバル誌だったはずなのに、まるで眼中になかったかのようだ。なるほど、早々に敗退こそしたが、『スクランブル』が担った村西とおるの「革命の志」を思えば、東販や日販など大手取り次ぎに乗った『FORCUS』や『噂の真相』は、ライバルではなかったのかもしれない。

村西や本橋がめざしたのは雑誌市場を征するのではなく制する自立(律)の道だろう。もちろん、征を切実に願っただろうが、それはあくまでも通過点に過ぎない。そんな風に思える。したがって、もう少し突っ込んだ出版流通論があってもよかったと思うが、いや、革命は理論から起こるのではなく、人間から人間が起こすものだから、『スクランブル』群像を活写すればいいのかもしれない。

若く貧しく無名な若者たちが集った『スクランブル』編集部に、元祖ルポライター・竹中労が突然訪ねてくるエピソードがいい。竹中は、「君たちはすべて正しい」と若者たちを全肯定し、「志がある」と『スクランブル』を絶賛する。

俺もリアルタイムで『スクランブル』を創刊号から読んでいたが、『FORCUS』や『FRIDAY』の二番煎じながら、元気な写真週刊誌が出てきて先が楽しみだと思った。その一方、先行誌に比べると稚拙感は否めず、そこそこのマイナー雑誌にでもなれれば御の字だろうと思っていた。つまり、「売り上げを征するものが出版を制する」と思っていたわけだ。

たぶん、村西とおると竹中労だけが、『スクランブル』が「日本一」になる可能性があると評価した。そして竹中労は、雑誌を継続する金が必要なら、「ゲラを見せて企業から金をふんだくれ」と平然と言い放ち、「新聞雑誌やTV局が広告取っているのと同じ」と断じる。革命の志操にしか重きを置かなかった竹中労らしい激励だ。

田中森一『反転』について、感情移入ができず歯切れが悪く思えたのはなぜか、本書を読んでわかった。ともに苦労人であり傑出した仕事師ながら、工業高校卒の裏本屋・村西とおるにある思想性が岡山大法文学部卒の弁護士田中森一にはなかった。あるいは、朝鮮民族主義者・許栄中に一味同心した自らの思想性について、田中森一は書かなかった。

本書に躍動する村西とおるには、溢れるような言葉がある。それを根拠なき演説というのは簡単だが、無内容と斥けることはできない。出版や雑誌づくりのアマチュアである2人が、業界の「常識」に挑んでいく過程で迸る言葉である限り、それはひとつのリアリティであり、知的な営為といえるからだ。だからこそ、本橋信宏という伴走者を村西とおるは得ることができた。だからこそ、田中森一は、許栄中の伴走者にはなりきれなかったのかもしれない。

『スクランブル』を休刊した編集長本橋は、破産した村西とおる(会長)と久しぶりに歌舞伎町のパリジェンヌという喫茶店で会う。

「悪かったな本橋、どうだ、飯食ったか」
 突然会長が登場した。
 お気に入りの白い麻のスーツはシミで汚れ、手にはロッテリアの紙袋が握られていた。
「どうだ、食べるか」というと会長はしわの寄った紙袋から冷めたチーズバーガーを取り出し、こちらをにらみつけるようにしてがぶりと食べた。
 ウエイトレスが注文をとりにくると、「あとでたのみますから」といって会長は追い払ってしまった。
 そしてまた冷え切ったチーズバーガーに怒ったようにかぶりつく。
「本橋、おれはあきらめちゃいないからな。きみもファイトするんです。もう一度カネができたら、『スクランブル』をやるから、わかりましたね」
 食べ終わるとテーブルの上のグラスの水を一気に飲み干した。
(中略)
会長は食べ残しのチーズバーガーを紙袋に入れて立ち上がった。
「編集長、忘れるなよ、おれたちのやろうとしたことを」
そういい残すと会長は紙袋を握りしめて去っていく。
尻の部分を真っ黒に汚した会長はネオンと闇が混じる空間に溶けていった。

堅気の人間が皆無な歌舞伎町の喫茶店。飯食ったかという第一声。汚れてもトレードマークの白のスーツを替えない男伊達。自分の食い物を分け与えようとする親分肌(プータローと援助交際目当ての女子中高生が屯する西武新宿駅近くのロッテリアで買ったものだ)。月に数億も稼いだビニ本・裏本の帝王から、借金取りに追われるドン底に落ちても、失敗しただけでけっして負けたとは思っていない男の意気地。「ナイス過ぎる」という村西とおるの口癖を思い出す。忘れかけていた過剰な生を思い出す。

(敬称略)


朝青龍懲罰

2007-08-04 23:31:45 | ノンジャンル
事実上の引退勧告ではないか。2場所休場より、謹慎4か月が重すぎる。自宅と稽古場と病院以外は外に出てはならぬ。いかに時代小説流行とはいえ、閉門蟄居ではないか。関取の外人化がこれほど進んでいるのに、伝統や相撲道を押しつけるのはいかがなものか。伝統といえば、モンゴル相撲のほうが先ではないか? 朝青龍の荒ぶる相撲こそ先祖帰りではないか? 親方・理事にまでなって、飲み食いの金までタニマチにたかる悪しき「ごっちゃん」体質の相撲協会に、世間に説くようなどんな道があるのか? 一種の外国人排斥ではないか? 横綱とはいえ、まだ20代の若僧だ。故国に帰りたい気持ちをもう少し汲んでやれないか? 緊密な交流が始まっているモンゴルの人心に配慮できないか? 謝ったらチャラという日本の美風はどこにいったのか? 中田ヒデよ、大人なら、朝青龍の友人だというなら、君が記者会見を開いて、「私が軽率だった」とどうして謝れない? 

横綱の品格?いつから裸芸者がそんなに偉くなった?  

東京伝説

2007-08-04 23:14:11 | ノンジャンル
平山夢明 竹書房新書

シリーズ7冊読んでしまった。幽霊や祟りより、生身の人間が、壊れた人間が、いちばん怖いという「都市伝説」本。夜道で始終後ろを振り向く女性の恐怖や嫌悪を少しはわかった気がする。仕事さぼって読んでいる俺も、周囲に甘えている壊れた人間だなと反省。適切な翻訳出版をしたら欧米で売れると思う。平山夢明、名人である。

反転

2007-08-03 23:56:11 | ノンジャンル
(田中森一 幻冬舎)

うやむやになりつつある緒方総連事件のせいか、ひさしぶりに暴露本に手を出してしまった。大企業の顧問料を得て左ウチワのヤメ検弁護士は数多いが、広域暴力団をはじめとする裏世界の弁護士となった異色のヤメ検である田中森一初の著作。表に出ないことをレゾンデートルとする「大物悪徳弁護士」からよくぞ原稿がとれたものだ。「外務省のラスプーチン」佐藤優本が売れているのに刺激されたのかもしれない。

ヤメ検といえば、かつては平和相銀事件の伊坂、そして許栄中事件のこの田中が有名だが、変わり種に福祉NPOを主催する堀田力という人もいる。いずれもその検事時代はエース格だったという。「一所懸命」を美徳として人生の振幅が小さい日本では稀な「反転」をするには、きわめて強い人格の持ち主というだけでなく、よほどのことがなくてはならないように思える。

読む前の予断はかなり覆された。著者の田中森一は、貧家に生まれて苦学のすえ特捜検事にまで社会の階梯を登るが、ヤメ検弁護士になるや、かつての「被告」や「容疑者」の法律顧問として辣腕を振るい、バブル紳士たちをはじめとする「闇世界の守護神」と呼ばれるまでになった。その「反転」に至る回心に興味を抱いたのだが、「反転」の結節がまったく違っていた。

「反転」とは、法律家でありながら、石橋産業事件によって許栄中とともに「詐欺罪」で逮捕起訴され被告となり、一審で有罪判決を受けたことを指す。著者(田中森一)は、特捜検事時代もヤメ検になった後も、「法律家として、一線を踏み外したことはない」と自負しているからだ。当然、石橋産業事件で問われた詐欺罪についても、無実無罪を主張している。

「特捜のエース検事」と「闇世界の守護神」は著者においては連続しているのだが、なるほど、考えてみれば当たり前だ。多くのヤメ検弁護士たちは、検事時代に捜査や取り調べをした企業の顧問として、検察情報のいち早い入手や後輩検事への圧力を売り物に、「企業社会の守護神」となっている。著者の場合、顧問先の多くがそうした大手や一流企業ではなく、バブル紳士や広域暴力団をはじめとする「闇世界」の住人だったに過ぎない。

また、特捜検事として数多くの不正や犯罪を必死に追及しているときも、「社会正義の実現」といった気負いはなく、検察の本質は、「権力体制と企業社会」を守るものであり、すべてが「国策捜査」(by佐藤優)と醒めている。著者が得意とする贈収賄や不正経理事件の摘発を社会の「ドブ掃除」と考えてもいた。

ではなぜ、著者は辣腕検事と評価されるまで自らを鍛え、年金受給資格を後数年で得られる前に検事を辞めたのか。著者の辞任を報じた当時の週刊誌記事では、「圧力」に弱腰の検察当局への憤りがその背景ではないかと推測している。本書でも、三菱重工CB事件や苅田町の選挙違反事件など、捜査が尻すぼみに終わったことへの不満は記されている。

また、著者のような捜査しか眼中にない叩き上げの捜査検事にとって、東大法卒で法務省の官僚となる「赤レンガ組」や検察幹部と閨閥で結ばれたエリート検事たちが主流を成す東京地検特捜部が、「本籍」である職人肌の捜査検事が働きやすい大阪地検特捜部に比べて居心地の悪い職場であったこともその通りだろう。独居が無理になった母の面倒を見るために、「金と余裕がほしかった」という事情もあったという。

「天職」と思ったほどの検事を辞めた背景や契機はいろいろだったようだ。なぜそうしたかは、当事者にもなかなか説明し難いものだ。何かをはばかってというだけではなく、実のところは本人にもわからないからだろう。検事時代には、判事が有罪の判断を下せるように、ときには強引にわかりやすい「物語」を調書にしてきただろう著者が、はたしてそうだったろうかと自分の記憶に迷っている皮肉な姿を想像すると可笑しくもあり、それでは「調書」として、肝心の動機の部分がかなり弱いと机を叩きたくなる。

自伝的な本ではあるが、著者の心の軌跡といったものはほとんど伺い知れない。「回心」らしきことは、収監中に差し入れられた中村天風の著作によって平常心を取り戻したという下りくらいである。正直、拍子抜けした。それは日本を代表する政財界人の座右の書が、城山三郎や司馬遼太郎の小説と知ったときに感じる落胆に近い。中村天風やその著作についてまったく知らないが、著者自身、それらの本を「自己啓発本」と分類している。

特捜検事として肩で風を切り、弁護士に転じた一時期は40億円もの資産をつくるまでに稼いだのに、獄窓の月を眺める身分に落ちたとき、わずかに残された人の情けに涙し、ふと手に取った「自己啓発本」の一言半句に、たまたま感銘を受けたのかもしれない。その正直さには好感が持てるが、そこには人間の生き方として同時代性が感じられない。バブルという時代がどういう時代であったかはいくらかわかる。その狭間で生きた人間たちがどんな人たちだったかは、著者・田中森一を含めてよくわからなかった。