コタツ評論

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今夜は、愛はかげろう

2020-05-06 16:45:00 | 音楽
keiさん、いつもお世話になっています。おかげさまで歌詞の意味や背景がわかり、洋楽の世界がうんと広がり深まりました。あらためてお礼申し上げます。

ひとつの日本語詩に生まれ変わったような、新鮮な驚きと興趣に富んだ言葉選びに、いつも感嘆しつつ楽しんでおります。

当ブログでも、ときどき「訳詞特集」をしておりますが、今回の「今夜は愛はかげろう」はとりわけ素晴らしい訳でした。

”I've Never Been To Me”
本当の自分にはたどり着けなかった
私らしく居られる場所じゃなかった
私の居場所はなかった
私の居るべき所じゃなかった


シャリーンの澄んだ歌声を聴きながら、韻を踏む英単語の音の面白さを追いかけ先回りしたりして、上記のような、シチュエーションに応じて控えめに丁寧に書き分けられた日本語を味わいつつ読んでいます。

愛はかげろうのように【訳詞付】- Charlene


みなさん、どうでした? 楽しめましたか。
聴き終わったら、ぜひ、コメント欄の上の「もっと見る」をクリックしてください。

「この歌を聴くと、昔アメリカでアップされたという有名なSNSの書き込みを思い出します」という書き出しのkeiさんの解説が読めます。

もう一度、「愛はかげろう」”I've Never Been To Me”をBGMのように聴きながら、その先を読んでください。

どうでした?

正直、「年収50万ドル以上の人を結婚相手に探している、かなり美人な25歳」の質問と投資銀行JPモルガンのCEOの回答は、Keiさんの創作ではないかと疑いました。事実にしては、面白すぎる話に思えたのです。

Keiさんではなく、元々が創作という可能性もあります。CEOならすぐに「身バレ」してしまいますからね。事実と創作のいずれにしろ、keiさんが巧みに和訳したおかげで読みがいのあるものになったことには違いなさそうです。

”お金持ちの馬鹿を探すよりも、あなたが年収50万ドル稼ぐ人になるほうが、ずっとチャンスがあるでしょう”
”この返信が、お役に立てますように。もしあなたが「リース契約」に興味があるならご連絡ください”


CEOの回答の最後の文章が粋ですね。まるで、上質なアメリカンコラムを読んだような満足感を私は覚えました。もっとも、PC下の現在なら、とても「粋な冗談」とは受け取ってもらえないでしょう。

「コロナが終息したら絶対おもしろ(中略)、美人さんがお嬢(風俗嬢)やります」とラジオで発言して問題となっている岡村隆史と似た「買春発言」とみなされるでしょう。ほんとうに回答者がJPモルガンのCEOなら辞任を迫られたかもしれません。

それはともかく、<Kei's Echo>を Youtube 検索すると、keiさんが訳詞した洋楽曲がたくさん出てきますよ。

I'VE NEVER BEEN TO ME


私が「愛はかげろう」を知ったのは、この映画「プリシラ」の挿入歌だったからでした。「マトリックス」でキアヌ・リーブスを痛めつけた<エージェント・スミス>役で知られるヒューゴ・ウィーヴィングやイギリスの名優テレンス・スタンプがなんとドラアグ・クイーン(ケバイ女装)になります。若かりしガイ・ピアースも「可愛い子ちゃん」で出てきます。

私にとっては、ヒューゴ・ウィーヴィングの代表作であり、映画としても愛と感動の名作です。未見なら、ぜしっ(「ぜひ」を「ぜしっ」と迫る江戸っ子の本間さんはどうしてるだろうか、もう死んだか)。「どこにも居場所がない」男と女の哀しみと切ない望みが、あなたの胸を打ち抜くことでしょう。

Ben DeLa Creme-I've Never Been To Me

(歌は1:35からはじまります)

驚きました? Ben という名前や腕の筋肉から、もしや「プリシラ」系かと思いましたが、詳しいことはわかりません(コロッケはこのあたりからパクってるな)。

(敬称略)

再びネギチャーハンについて

2020-05-05 03:05:00 | ノンジャンル
なぜそうなのか、誰か知っていたら教えてもらいたいのですが、前回ご紹介した「最後のチャーハン」(映画『タンポポ』)には、いくつかの矛盾が目につきます。

映画に観る名シーン02 「最後のチャーハン」タンポポ


電車と踏切の騒音問題です。

前記したように、小学校低学年の頃は大田区東蒲田の町工場街に住んでいたので、映画の町並みや木造モルタルアパートとその部屋の中、窓枠を揺らして過ぎる京浜急行の電車や踏切の音などを知っています。最寄り駅は梅屋敷駅でした。

通過する電車の車輪と線路の擦過音やカンカンと鳴る踏切の警報音を、線路際に住む人は気に留めません。慣れてしまうのです。その代わり、騒音に負けじと大声で話します。そして、自分が大声なのにも気づかないようになります。

したがって、とおちゃん(井川比佐志)が踏切の音や電車の通過音に驚いたように振り向き、しばしぼおっとするのは不自然に思えます。医師と看護婦がびっくりしたように窓に眼をやっても、家族は無視というのが「自然主義リアリズム」(just a kidding)というものです。

とおちゃんが振り向いた後、カメラアイは切り替わり、走行中の小田急ロマンスカーのような座席指定の特急電車を斜め上から撮ります。夜の間を白く輝く車窓の列が走り去るなか、白いワイシャツ姿の乗客たちの姿も見えます。そんな中流と貧乏なとおちゃんの心象風景をモンタージュしているのでしょうか。

(かあちゃんが死んじまう!)(子どもたちの飯は誰が作るんだ!)と切迫しているのに、そんな呑気な「社会主義リアリズム」(just a kidding)」に耽っている場合ではないでしょう。

その路線でいくなら、とおちゃんはスーツ姿の安サラリーマンではなく、工員の作業服姿で自転車を懸命にこいで戻るべきでした。近所の町工場務めだから、昼飯や晩飯時には帰ってきて、子どもたちとかあちゃんの料理を食べていたのです。

それなら、特急電車の車窓にカメラがパンするのも電車音や踏切音などの日常騒音への説明的ショットということになり、「かあちゃん! 飯つくれ」というでかい声がより活かされるわけです。

線路際騒音に絡むショットでないとすれば、振り向くとおちゃんが大声を出すのは整合性を欠いた行為になりますが、あるいは黒澤明以来、「セリフは怒鳴るもの」という邦画演出の悪習のためからかもしれません。

また、一家の服装からみて、季節は夏なのに、窓は閉まりカーテンも引かれているのは、クーラーがあるということなのでしょうか。私の子どもの頃は扇風機しかありませんでした。いや、私の家がとくに貧乏だったのではないのです。一般的な家庭でも等しくそうだったのです。

というわけで、いくつか矛盾や疑問が浮かぶのですが、季節を夏にしたことで、基本的なリアルは担保されていることも言っておかなくては、片手落ちになるでしょう。

この一篇のなかで重要な脇役であるネギチャーハンとは、夏の季節料理なのです。いや、冬だっていつだってチャーハンは食うだろうし、作るだろう。もちろん、その通りです。しかし、ネギチャーハンは夏にこそ優れて求められるメニューなのです。

暑い季節、少しねまり(腐り)かけて饐えた匂いのするご飯を消化してしまうために、ネギチャーハンは作られるのです。つまり、ネギチャーハンとは、かあちゃんにとって貧乏暮らしの知恵のひとつに過ぎないのです。そして、やっぱりかあちゃんのチャーハンは旨いやといってくれる家族(子ども)にだけ通じる、「かあちゃんの魔法」なのです。

さすがに、ネギチャーハンの作り方の動画は上がってなさそうなので、私が伝授します。
材料:輪切りにしたネギ中くらいを一本、サラダ油大さじ2、冷ご飯3合、あみ印チャーハンの素2袋

作り方:中華鍋大に油を垂らし、ご飯を炒める、あみ印チャーハンの素2袋をふりかけて炒める、最後にネギを投入して手早く炒める。


したがって、冷蔵庫は今なら独身用のような小型で、冷凍庫は冷ご飯どころか氷しか作れない小さなものでなくてはならず、当然、クーラーではなく扇風機しか部屋にはないはずで、窓やカーテンは開けてなければおかしいということになります。

我ながらしつこいですね。伊丹監督、ほんとうのところはどうだったんでしょう?、そんな疑問への答えは、すでにじゅうぶん映されているじゃないか? といわれそうです。

たとえば、とおちゃんが電車の音に振り返ってぼおっとしたのは、黄泉の国からかあちゃんを迎えに来たのではないかと直感したからである。

部屋内から外に出たカメラは、車列の窓に見える乗客たちの姿を死人(しびと)のように撮り、電車や踏切の音はかあちゃんの乗車を急かす怒号や叫び声なのだ。線路際を走る電車は死の旅のメタファーである。

そんな風に解釈すると、見事に筋道は通ります。これなら、暑い夏にクーラーもないはずなのに、窓やカーテンを閉め切っているのも合点がいきます。

そして、旅立ちを急かされているかあちゃんをこの世に引き留める言葉が、「かあちゃん! 飯を作れ」なのです。聞き取ったかあちゃんはよろよろと台所に立ち、いつものネギチャーハンを作ります。かきこむ夫や子どもたちの様子を眺め、かあちゃんは微笑みながら旅立ちます。

伊丹十三らしくなく、感動的ですね。

伊丹十三(私にはこの名前のほうが馴染みがある)は今日的な題材を現実主義的な視点で料理して、誰でも楽しめる映画を作る人でした。この「最後のチャーハン」をあらためて観て、彼は「寅さん」映画を意識して(もちろんヒット作として)、山田洋次(俳優の演出において)なら越えられると考えていた節があるな、と今思いつきました(とっくに誰かが指摘しているかも)。

伊丹映画再評価の声が高まっているそうです。私は最初の「お葬式」が好きですが、伊丹映画をまだ観ていないのなら、ぜひご覧になってください。どの作品もおもしろくて楽しめます。宮本信子と「寅さん」の異同について、いっしょに考えてくれませんか。

(止め)











































































































































のつけ足りで、でかい声で「かあちゃん、飯つくれ!」を活かすためなのだなと見逃せるのです。

また、一家の服装からみて、季節は夏なのに、窓は閉まり窓が閉まりカーテンも引かれているのは、クーラーがあるということなのでしょうか。私の子どもの頃は扇風機しかありませんでした。いや、私の家が貧乏だったのではないのです。一般的な家庭では等しくそうだったのです。

というわけで、いくつか矛盾点を指摘できるのですが、季節を夏にしたことで、基本的な写実性や再現性は担保されていることも言っておかなくては、片手落ちになるでしょう。

ネギチャーハンは夏の季節料理なのです。いや、冬だっていつだってチャーハンは食うだろうし、作るだろう。もちろん、その通りです。しかし、ネギチャーハンは夏にこそ優れて求められるメニューなのです。

暑い季節、少しねまり(腐り)かけてすえた匂いがするご飯を消化してしまうために、ネギチャーハンは作られるのです。つまり、ネギチャーハンとは、かあちゃんにとって貧乏暮らしのなけなしの恵のひとつに過ぎないのです。そして、やっぱりかあちゃんのチャーハンは旨いやといってくれる子どもにだけ通じる、「かあちゃんの魔法」なのです。

さすがに、ネギチャーハンの作り方の動画は上がってなさそうなので、私が伝授します。
材料:輪切りにしたネギ中くらいを一本、サラダ油大さじ2、冷ご飯3合、あみ印チャーハンの素2袋

作り方:中華鍋大に油を垂らし、ご飯を炒める、あみ印チャーハンの素2袋をふりかけて炒める、最後にネギを投入して手早く炒める。


ですから、冷蔵庫は今なら独身用のような小型で、冷凍庫は冷ご飯どころか製氷器しか入れられない小さなものでなくてはならず、当然、クーラーではなく扇風機しか部屋にはないはずで、窓やカーテンは開けていなければおかしいということになります。

しつこいですね。伊丹監督、ほんとうのところはどうだったんでしょう?、そんな指摘への答えはすでにじゅうぶん映っているじゃないか?

伊丹十三(私にはこの名前のほうが馴染みがある)は今日的な題材を現実主義的な視点で料理して、誰でも楽しめる映画を作る人でした。彼は「寅さん」映画を意識していて(もちろんヒット作として)、山田洋次(俳優の演出において)なら越えられると考えていた節がある、と今思いつきました(とっくに誰かが指摘しているかも)。

伊丹映画再評価の声が高まっているそうです。私は最初の「お葬式」が好きですが、伊丹映画をまだ観ていないのなら、ぜひご覧になってください。どの作品もおもしろくて楽しめます。宮本信子と「寅さん」の異同について、いっしょに考えてくれませんか。

(止め)