コタツ評論

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今夜もバック

2021-02-05 01:01:00 | 音楽
長い夜のために、暁烏が鳴くまで。
ヨーロッパの聴衆ほど、セロに馴染みはないが。

Suites violoncelle JS Bach / Marc Coppey

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今週の拾得物

2021-02-02 22:33:00 | ノンジャンル


いい話です。いい話過ぎる気がして、ツイートした人の背景を読んでみた。失礼ながら、作り話かなという思いがよぎった。「わからなくても一緒にかんがえられるから」が子どもではなく、お父さんの言葉に読めてしまうからです。

だが、この話の出自はどうあれ、<おしえはぐくむ>という「教育」の原義をよく伝えていることには得心します。

ためしに、この話に、この父と子に、「早期の英語教育」や「詰め込み教育もときに必要」、いま話題の「リモート学習」など、いろいろな「教育」「学習」のトピックやテーマを代入してみればよい。

いや、「教育」をいちいち、<おしえはぐくむ>と読み直すだけでもいい。<はぐくむ>がそぐわないでしょう? 「受験教育」「社員教育」「生涯教育」などは、いわずもがな、これらは「教育」ではなく「訓練」ですね。

世界は変えずに人々を発見する PTAと野党の交差点
https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2021020100001.html

まず、気づいたのは、注釈が辛辣なこと。たとえば、これ。

(注2) かつてはディストピアとして描かれたG.オーウェルの『1984年』の世界で起こったことを、現代日本政治では一部追い越してしまっている。100%の虚偽答弁が「虚偽であると認識されたまま放置」されている事態は、オーウェルすら想定していなかった。なぜならばオーウェルの世界は、「虚偽」ではなく「存在していなかったことにする」という、そこにギリギリの「作為」が発見可能だったからだ。

本文は平易にして説得的だが、PTAを扱ってこれほど読ますとは驚きです。

新コロナ下の新一年生の保護者が、「何がわからないのかすらわからない」という苦境に陥っていることを知った、筆者のPTAはどうしたか。

種々の行動の制限の枠で、急遽「保護者しゃべり場」を開催したPTAは、会員の中に多様かつ切実な悩みが存在することを知った。文化厚生委員会のリーダーたちは、一括りにできない「新入生の保護者」の小さく確実なつぶやきを発見し、間髪を入れずにワーキングチームを作り、事態をレポートにまとめて校長に直接伝えた。日々の業務に忙殺されながら、学校はこの問題を重く見て、異例のスピードで「1年生のための保護者会」を開催し、ギリギリのところで最悪のハザードを防いだ。

 PTAの担い手たちは、立派な改革をしたわけではない。学校の不作為と乏しい機能を批判することもひかえ、ウェブサイトで教員たちの窮状をやんわりと伝え、口コミも活用し、保護者の学校への個別のクレームも極少までに抑えた。つまり、子を持つ普通の市民たちは、「世界を変えろ」と抗議するのではなく、「そこにいる人々の力を引き出すための環境」をひとつひとつ充実させる努力をしたのである。学校や行政を非難しても誰も幸福にならないからだ。

 新1年生保護者という「発見されていない人々」であり、同時に「何もわからない」と心にため込む人々に、PTAは「私たちはあなたたちの存在を把握したし、そこに不安と苦しみがあることを伝えたよ」と、本当にやるべきことに気づき、それをすぐにやっただけだった。

 世界は変えない。隣人の封じ込まれている最良なものを引き出すための環境をつくる。「ここに私たちはいるんですよ」という人々を発見する。

 それが「正しいからやる」のではない。「目の前にいる、自分もそうなりえたはずの隣人の気持ちを、彼らの生活の言葉で代弁せずにいられないから」やったのである。筆者は、幾多もある政治の原義の一つをここに見るのである。

今日は、教育と政治の原義を学びました。原義とはまた難しげな? もともとの意味、つまり本来の役割を果たしているか、ということです。

(止め)

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