22日金曜日、夫の母が急逝したという電話を受け取って、新幹線に飛び乗りました。
享年86歳、心臓麻痺でした。
義母は陽気で明るい人でした。
心臓の働きが多少弱ってきたとはいえ他に内臓疾患はなく、とても元気でした。
亡くなる前の晩に電話で話し、先月にも一緒に食事をしたばかりでした。
実母の手伝いに毎月帰省していた私は、一人暮らしをしている義母の家にもよく寄っていたのです。
享年86歳、心臓麻痺でした。
義母は陽気で明るい人でした。
心臓の働きが多少弱ってきたとはいえ他に内臓疾患はなく、とても元気でした。
亡くなる前の晩に電話で話し、先月にも一緒に食事をしたばかりでした。
実母の手伝いに毎月帰省していた私は、一人暮らしをしている義母の家にもよく寄っていたのです。
ここのところはコロナを気にしながら、迷いながらでしたが。
5年前には一緒にアメリカに行きました。
正確に言えば、ヒューストンに単身赴任していた義弟宅を訪ねた義母を、夫と私が観光がてら迎えに行ったのでした。
NASAの施設やロケットを、八十過ぎの義母は私などよりずっと熱心に観て廻っていました。
ヒューストン空港はあまりにも広いので予め車椅子を申し込み、それに乗ると出国手続きなど最優先にして貰えました。
ラウンジでも丁寧なもてなしを受けて、こんなに元気なのにと気恥ずかしそうだった義母の顔を思い出します。
私の息子たちも、どれだけ義母に可愛がってもらったか分からない。
女性としていつも前向きの姿勢を尊敬していました。
コロナ禍のこの御時世、葬儀は家族葬で。
そうはいっても大きな斎場は、義母が好きだったピンク系の綺麗な花に包まれていました(供花の名前をぼかした写真を出してみました)。
紅型染めが趣味だった義母が作った、銀鼠色の色留袖を着せて送り出しました。
長患いをするよりは、余程幸せな逝き方であったのかもしれない。
それでもあまりにも突然でした。
お義母さん、今まで本当にありがとうございました。
5年前には一緒にアメリカに行きました。
正確に言えば、ヒューストンに単身赴任していた義弟宅を訪ねた義母を、夫と私が観光がてら迎えに行ったのでした。
NASAの施設やロケットを、八十過ぎの義母は私などよりずっと熱心に観て廻っていました。
ヒューストン空港はあまりにも広いので予め車椅子を申し込み、それに乗ると出国手続きなど最優先にして貰えました。
ラウンジでも丁寧なもてなしを受けて、こんなに元気なのにと気恥ずかしそうだった義母の顔を思い出します。
私の息子たちも、どれだけ義母に可愛がってもらったか分からない。
女性としていつも前向きの姿勢を尊敬していました。
コロナ禍のこの御時世、葬儀は家族葬で。
そうはいっても大きな斎場は、義母が好きだったピンク系の綺麗な花に包まれていました(供花の名前をぼかした写真を出してみました)。
紅型染めが趣味だった義母が作った、銀鼠色の色留袖を着せて送り出しました。
長患いをするよりは、余程幸せな逝き方であったのかもしれない。
それでもあまりにも突然でした。
お義母さん、今まで本当にありがとうございました。