Zooey's Diary

何処に行っても何をしても人生は楽しんだもの勝ち。Zooeyの部屋にようこそ!

「武士の娘」

2019年08月13日 | 

1873年(明治6年)、越後長岡藩の家老の家に生まれた杉本鉞子(えつこ)は
武士の娘として厳格に育てられ、結婚によりアメリカに住むようになっても
「武士の娘」としての矜持を失うことはなかった。
これは、大正時代に米国の雑誌に英文で連載された彼女の自叙伝です。
連載後の1925年にアメリカで出版されて人気を博し、7ヵ国語に翻訳されたといいます。

武士の娘として育てられたということが具体的にどういうことなのか、
興味を持って読み始めたのですが、中々に面白い。
著者は幼い頃より歴史や文学、仏教、漢籍、生け花や裁縫などを教えられていたが、例えば、その漢籍を教えられている時の様子。
”お稽古の2時間の間、お師匠様は手と唇を動かす外は、身動き一つなさいませんでした。
私もまた、畳の上に正しく座ったまま、微動だも許されなかったものでございます。唯一度、私が体を動かしたことがありました。どうしたわけでしたか、落ち着かなかったものですから、ほんの少し体を傾けて、曲げていた膝を一寸ゆるめたのです。
すると、お師匠様のお顔に微かな驚きの表情が浮かび、やがて静かに本を閉じ、きびしい態度ながらやさしく、「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません。お部屋に引き取って、お考えになられた方がよいと存じます」とおっしゃいました”

やがて著者は12歳で兄の友人、アメリカで日本骨董の店を営む松雄と婚約。
東京の女学校で4年間英語を学んだ後、渡米してシンシナティのウィルソン家に身を寄せ、やがてその親戚筋の家で、そこの未亡人「アメリカの母上」と共に新婚生活をスタート。
二人の娘に恵まれ、平穏に暮らしていたが、12年後に夫が急死して帰国。
数年間日本で暮らした後、アメリカを懐かしがる娘たちを連れて再び渡米、そこで生活のために書かれたのが本書だった訳です。

アメリカで鉞子が身を寄せたウィルソン家というのは地元の名家であり、
その親戚筋の未亡人という人も、大きな家でメイドや下男を使っている。
なので
”朝食を終わると「母上」は裁縫や編物を、私は新聞を手に、そこに出るのでした。おそばの小さい安楽椅子に陣取って英語の勉強のために私は毎日新聞を読み、解らぬ所々を教えて頂きました”
という、優雅な生活であったようです。
しかし、いかに金持ちであろうと教養があろうと、人が一緒に暮らせば(しかも異国の人と)
様々な摩擦が起こるのではないかと私などは思ってしまうのですが、
鉞子の文章は、この人への感謝の思いに満ち満ちているのです。
「我を捨てる」という教育が染み渡っているので、不満など持たないのかしら?

その時代に日本からアメリカに行けば、さぞかし文化も違って戸惑ったことと思うのですが、鉞子は些かも卑屈になることがない。
アメリカの主婦たちが家計を任されておらず、例えば教会への寄付金も自分の裁量ではままならず、身なりの良い、上流夫人のように見える女性が、夫のポケットからこっそり調達したと言うのを聞いて、なんと浅ましい、恥ずかしいことと胸のうちでこっそり批判しているという具合です。

著者の祖母が語ったというこの言葉が、武士の娘としての教えをすべてを語っているようです。
”「住むところは何処であろうとも、女も男も、武士の生涯には何の変わりもありますまい。
御主に対する忠義と御主を守る勇気だけです。
遠い異国で、祖母のこの言葉を思い出して下され。
旦那様には忠実に、旦那様の為には何ものをも恐れない勇気、これだけで。
さすればお前はいつでも幸福になれましょうぞ」”

この本は英語で書かれた原作を翻訳されたものですが
翻訳者大岩美代の後書きによると、原作者本人と毎週読み合わせをしながら作業を進めたとあり、原作とのニュアンスの違いの心配は不要のようです。

「武士の娘」 


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 瞬時に読み取り、それ相応に | トップ | 猛暑の銀座散策 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2019-08-13 21:07:11
江戸時代は、武勇や体術が得意とする武人の時代ではなく、官僚制度による文治の時代で、庶民も寺子屋で文字を習い、教育に力を入れられていました。武士の女性は、家事を取り仕切りながら、薄給の下級武士の副業である内職を手伝ったり、忙しかったと思います。

男性には町人への無礼討ちが合法でしたが、意外と口喧嘩では、武士の女性というのは、言いくるめられて泣かされる事もあったそうです。罵詈雑言、あるいは言葉遊びが、多様な階級や文化の人々との交わりから経験になる事を思えば、門閥的な武士の娘というのは、箱入りが多かったのでは無いでしょうか。

アメリカに渡り、自由とされる新興国での新生活に慣れるには苦心されたでしょうね。如何にこの女史が高潔で名家だからこそ、立場を保つためには、旦那さんや家とは一蓮托生だったと思います。そうした矛盾を埋める救いはあるのでしょうか。
返信する
隆さま (zooey)
2019-08-13 22:12:53
この著者の生家は下級武士ではなく、家老職だけあって、相当の家であったようです。
長岡藩は幕府政治を支持していたので、維新後、父親は囚われの身となり、
本来の家を焼き払って借り住いのような家に移っても
広い家屋、庭、爺やに乳母に何人もの女中がいたようです。

アメリカでの生活で、この人は受洗したようです。
そちらの方に矛盾を埋める救いを求めたのかもしれませんね。
返信する

コメントを投稿