徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

地下駅にも色々・・・

2005年12月21日 09時51分16秒 | 鉄道のよもやま話

地下駅は、当然地下にある駅のことですが、主にホームが地下にあり、駅舎は地上にある場合と両方が地下ににある場合があります。

国内最初の地下駅は、国内初の地下鉄としての昭和2年に開業した浅草や上野間の駅ですが、郊外電車初の地下駅は、昭和3年に開業した新京阪電鉄(現阪急電鉄)の西院駅で、駅舎は地上にあるが、ホームは地下に設けられました。

   
 阪急 西院駅             黒部湖駅

国内でも最も低いところにある地下駅は、JR北海道海岸線の吉岡海底駅で海面下149.5m、最も高い所にある地下駅は、立山黒部観光の黒部湖駅で標高1455mにあります。

阪神電鉄の春日野道駅も地下にありますが、変わったことで有名です。 それは、駅の巾が日本で一番狭い陸型駅であったことです。 今年から改良され、上下線にそれぞれの駅が出来ましたが、まだ線路の間には、旧のホームが残っています。

  
 阪神 旧春日野道駅巾2.6m  新春日野道駅


  電車の間に旧ホームがあり、左右に新ホームが出来ました


地下駅では、ありませんが、北陸本線の筒石駅も変わったことで有名です。それは頚城トンネルの中にホームがあり、駅から改札口まで約300段の階段を上らなくてはなりません。 5~6分かけて改札口を出ると駅は山の中にあります。
待合室では、お茶も出してくれるそうです。

 
 筒石駅                    駅に通じる階段

最近は、都市部だけに限らず、地方でも地下駅が増えています。が火災などの防災に力が入れられ、昭和50年に当時の運輸省は、通達で既存の地下駅も平成20年までには、基準を満たすことが義務付けられています。


乗車人数の一番多い駅は・・・・

2005年12月20日 10時18分46秒 | 鉄道のよもやま話

日本で一番多い乗車人数の多い駅は、JR新宿駅です。

     

乗車人数とは、その駅の改札を入って、電車に乗った人の数で降りた人は、入っていません。 つまり乗降客ではないく、乗った人だけの数で利用客とは異なります。

目安として、日本にある駅の中で、利用客の多いのデーターとして使われています。

JR新宿駅が単独駅として一番多く、1日平均で約74万6000人に上ります。
「新宿」と名の付く駅は、私鉄の小田急、京王、西武、東京メトロ、都営地下鉄を加えるともっと利用者数は、増えるでしょう。


  池袋駅                池袋駅前の忠犬ハチ公

第2位は、やはり東京の池袋駅で、1日平均約56万6000人で、3位は、大阪駅の42万6000人です。

 
 大阪駅(アクティ大阪)    開業時(明治7年)の大阪駅

4位が再び東京の渋谷駅の42万人で、差はわずかです。5位は、グッと落ちて京都駅の17万2000人、6位が天王寺駅の14万8000人と続いています。


これらを見ると、JR東日本とJR西日本に集中していますが、判断の難しいのがJR東海の名古屋駅です。 東海道新幹線だけを見ると、名古屋駅が一位で、次に東京駅、新大阪駅となりますが、乗客数のみのカウントであり、どうしても正確な乗客数の把握が難しいのだそうです。

 
 京都駅から京都タワーを望む     開業時の京都駅

ちなみに、JR九州は、博多駅の1日平均約9万8000人、JR北海道では、札幌駅の約8万4000人、JR四国では、高松駅が1万3100人で、いずれも10万人を切っています。


なぜ?プロ野球に鉄道会社が多かったのか?

2005年12月19日 13時59分59秒 | 独り言・社会・ニュース

日本の野球と鉄道会社とは、意外と深い関係にあります。

最初に野球を日本に紹介したのは、ホーレン・ウイルソンらの外国人ですが、明治11年(1878年)に新橋鉄道局に勤めた平岡煕(ひろし)の貢献も大きかった。

彼は、アメリカ留学中に野球を覚え、新橋鉄道局に入るとすぐ、日本初の野球チームをつくりました。その影響で、数年後には、駒場農学校やいくつかの大学の学生たちが野球をするようになりました。

さらに、日本プロ野球の創立にも、鉄道業界が大きく関わりました。 読売新聞の正力松太郎の尽力で日本職業野球連盟が発足したのは、昭和11年(1936年)ですが、それより13年前の大正12年(1923年)に、阪急電鉄の創業者の小林一三「電鉄会社各社が自社の野球チームと専用球場を持ってリーグ戦を開くことによって、沿線の振興を図る」という電鉄リーグの構想を発表しています。

   
大阪球場跡にある南海メモリアルホールのボード   

栄枯盛衰、現在の平和台球場跡

この計画は、他社が同調しなかったので立ち消えになりましたが、日本職業野球連盟が発足すると、阪急電鉄は、チームを作り、リーグ戦に参加しています。

昭和10年(1935年)には阪神電鉄が、それからまもなくして南海電鉄が加わり、9球団の内、3球団が電鉄系になりました。

戦後になって国鉄、東急、西鉄、近鉄と次々に球団を結成し、当時セ・リーグ8球団中2球団が、パ・リーグ7球団中5球団が電鉄系を占めました。


杉浦の4連投で日本一になった時のチャンピオンフラッグ

しかし、半世紀が経って、次々と球団の身売りがあり、現在は、阪神、西武の2球団になってしまいました。

西武も身売りの話があり、鉄道と野球に深い関係は、どうやら過去のものになってしまったようです

他方、映画会社(松竹、東映、大映)も球団を持っていましたが、無くなっていき、今は、IT関係の球団が出て来ており、プロ野球を見れば、日本の経済が分かるのかも知れません。


今日は何の日!!-12月18日ー

2005年12月18日 09時31分23秒 | 今日は、何の日

大正3年(1914年)12月18日は、東京駅落成式が行われました。 
開業は20日。


     開業当時の東京駅

それまでは東北方面への玄関口である上野駅東海道本線の起点である新橋駅(後の汐留駅)の間が途切れていたため、両駅を高架で結ぶ計画が立てられました。

 

                     日本銀行本店の落成記念図

これを中央停車場として明治36年(1903年)から設計を辰野金吾が行いました。
建築は、明治41年から6年の歳月と当時の金額で280万円(今の金額では30~50億円)掛かりました。

    
   辰野金吾氏          国会議事堂

設計者の辰野金吾は、東京駅の他、国会議事堂、日本銀行本店、ソウル駅を行い、今でも残る近代建築を起こしました。
但し、ソウル駅は、最近新しい近代的な駅に建替えたそうです。

    
    日本銀行本店             旧ソウル駅

                


その後の吉良家は・・・

2005年12月17日 10時34分32秒 | 独り言・社会・ニュース

昨日の続きです。 
浅野家は、内匠頭の弟が大名ではないが、旗本として取り立てられ昭和まで続きましたが、吉良家は、その養子の義周(よしちか)で絶えてしまいます。

吉良家は、名門中の名門の出であり、上杉家と大きな繋がりがありました。
と言う事で、上杉家についてチョット述べて見ます。

  
 上杉家の家紋    米沢城の堀

上杉家は言わずと知れた上杉謙信を祖先として、関が原以前は、越後・越中・加賀・能登・佐渡で120万石を領していましたが、関が原の責を負い、米沢に30万石に減俸され、その後三代綱勝が急死し、一時は断絶の危機の陥りますが、吉良上野介の長男が四代目を継ぎました。しかし、15万石に半減させられました。

吉良上野介の室は、上杉二代目の定勝の娘という関係があり、上杉家との関係が出来ました。 
その上野介の長男の上杉綱憲の子(幼名 春千代)が上野介の養子に入り吉良義周と名乗りました。 

   
吉良義周の墓          愛知県幡豆郡吉良町にある吉良義周への伝言板

刃傷事件後、家督を継いだのが、16歳でした。
そして、討入り後、18歳で領地没収され、諏訪安芸守(高島藩)にお預けとなり、その地で21歳の若さで死去しました。

彼の名誉のために言わせて頂くと、討入りの時は、奮戦し目に血が入り、気を失ったと言う事でした。 

世相では、悪役になっていますが、本当のところは、分からないのが真相ではないのでしょうか?


浅野家は、昭和61年に断絶・・・・

2005年12月16日 10時53分37秒 | 独り言・社会・ニュース

先日の続きです。 その後の赤穂は、浅野家はどうなったのでしょうか?

赤穂城は、元々池田輝政が播磨一国を領し、輝政の五男池田政綱が分地して、赤穂に三万五千石で入りましたが、弟の輝興が乱心し改易され、その後に常陸笠間にあった浅野家の分家の浅野長直が五万三千石で入りました。

 
  赤穂城                  復元された赤穂城大手門

三代目の内匠頭長矩が刃傷で改易され、その後永井家が一代で移封、森家が美作津山から二万石で入り、11代で幕末を迎えました。

森家は、あの有名な森蘭丸の末弟が美作に十八万石を得、美作津山藩主の長継の8男の長直が赤穂に転封されたものです。

浅野家は、あの刃傷事件で内匠頭長矩が切腹し、弟の浅野大学長広は、三千石の幕府旗本寄合に列していましたが、1701年に閉門され、1702年に本家広島浅野家にお預けとなりました。

 
 赤穂城の復元完成予想図        赤穂城天守台跡

しかし、1709年にお預け御免となり、1710年には五百石の旗本寄合に列せられ、大名ではないが、赤穂浪士の切腹から6年後にお家再興されました。


赤穂天守台から本丸御殿跡を望む、現在発掘作業し復興計画中です。
五万三千石にしては、広大且つ立派なお城のようでした。

その後、浅野家は、11代続きましたが11代の浅野長楽昭和61年(1986年)に病死し世嗣なく、再び昭和の時代に、浅野家は断絶しました。


今年も”ルミナリエ”に・・・・

2005年12月15日 10時22分30秒 | 独り言・社会・ニュース

昨日の神戸の最低気温は、0.7℃(平均気温は5.1℃)でした。
毎日のように、この冬一番の寒さの更新です。
この寒い中、昨晩はルミナリエに行ってきました。
 時間を少し遅らしたせいか、はたまた寒かったせいかは分かりませんが、例年より人出が少なかったようです。

震災以来、毎年の恒例となり、綺麗な電装を見ていると、何か平和で穏やかな気持ちになります。 今年も嫌なニュースが多く在りましたが、ここは、醜い地上とかけ離れてホッと出来るのもいいものです。

特に耐震偽造事件は、日本の企業の良識をひっくり返すもので、国会の証人喚問を聞いていると、どこまでが本当なのか分かりません。  二度と繰り返さない地震の被害をと願っているものにとっては、悔しいものです。

地震は、いつかは起こるでしょう。  
一般の住民は、何を信じれば良いのでしょうか?

        

 


赤穂浪士の討入りは46士??

2005年12月14日 11時23分11秒 | 独り言・社会・ニュース

赤穂浪士の討入りは、元禄15年(1702年)12月14日とされていますが、正式には12月15日の早朝午前4時ごろのようです。
当時は、夜が明けるまでは、まだ前日の日付けとしていました。14日は、月こそ異なるが主君の浅野内匠頭の命日であり、その日は、吉良邸にて茶会があることが分かりその日に討入りを決めたようです。

卯の刻(午前6時)頃に本懐を遂げ、辰の刻(午前8時)頃、浅野内匠頭の墓のある泉岳寺に着き、墓前に上野介の首を供え、仇討ちを報告したと伝えられています。

 
 吉良邸跡(公園)          吉良邸周辺図

この時、浪士47人は、46人になっていました。 寺坂吉右衛門が浪士から抜けていますが、その説にも色々あります。 一般的には、身分が唯一の足軽で、浅野家とは、陪臣で寺坂の主君は、47士の吉田忠左衛門であり、大石内蔵助が逃がしたとされています。 そして、浅野内匠頭の弟の大学に報告に行かせたというものです。又、臆病風に吹かれて逃げたと言う説もあります。

この寺坂吉右衛門は、その後、数奇な人生を歩んだようです。吉田忠左衛門の娘婿のいる姫路藩士の足軽になったとか、長崎の五島列島に行ったとか(現に墓があるようです)言われています。

泉岳寺にも、寺坂の墓がありますが、これは明治になって建立されたようです。 享年83歳であったそうです。

この赤穂浪士には、その他色々の逸話があり、日本人の好みに合った物語に仕上げていったようですが、これも昔からの日本人気質が反映している事に違いありません。

    
  浅野内匠頭の終焉の場所       大石内蔵助


その時、梶川与惣兵衛は・・・・

2005年12月13日 09時19分49秒 | 独り言・社会・ニュース

前回の続きです。

五つ時(午前8時)、浅野内匠頭は、江戸城本丸御殿に登城し、勅使を迎える場所を聞くために吉良上野介を探すが柳の間にはいない。
式の30分前になって、吉良が柳の間に入ってきたので聞くと、今になって聞くのは思慮が足りないと罵られる。

その時、梶川与惣兵衛は、勅使の登城が早まったので吉良を探すが居ないので浅野にその旨を託す。

午前11時ごろ、梶川は、吉良に松之廊下で会い、話かけるその時、浅野が「この間の遺恨をおぼえたるか」と声をかけて、吉良の背後から切りかかった。

     

梶川は、「殿中でござる」と浅野を背後から抱きかかえ止めて、吉良は浅手で済んだというのが、事の成り行きと推察されています。

推察というのは、確かな資料がなく、当時の梶川の日記にも詳細は記載されていないそうです。

        
 浅野家の家紋      梶川家の家紋

当時、梶川与惣兵衛頼照は、53歳で700石の旗本で、江戸城大奥御留守居番で桂昌院(将軍 綱吉の母堂)付きでした。

    五万石  しっかり抱いて  五百石

このとき、騒ぎを収めたる功神妙ということで、五百石を加増されています
が、その後、彼は、「武士の情けを知らぬ」と武士仲間からは勿論、一般庶民に至るまで軽蔑されました。

彼は、このような事態になるとは、「想定の範囲外」であったに違いありません。


ミステリーには、鉄道が格好の題材・・・・

2005年12月12日 09時03分06秒 | 鉄道のよもやま話

ミステリーには、海外でも国内でも鉄道を扱った作品がずいぶんと多いです。

1934年には、アガサ・クリスティ「オリエント急行殺人事件」が発表され注目を浴びました。 日本でも1957年から松本清張「点と線」の雑誌掲載が始まり、名作には鉄道のミステリーが多くあり、今日では、鉄道ミステリーは小説のジャンルの一つとなっています。

 
 オリエント急行           オリエント急行のシンボルマーク

その後、西村京太郎「寝台特急殺人事件」鮎川哲也にも鉄道を扱った作品が多く、「下り”はつかり”」では、容疑者が、鉄橋を渡る青森行きの「はつかり」をバックに写した自分の写真でアリバイを主張すると言う、意外性がトリックに使われています。

 
                ”点と線”の舞台となった東京駅

他には、赤川次郎津村秀介などの作品にも鉄道の時刻表を扱ったトリックを題材にしたものが多く在ります。

どうしてミステリーには、こんなに鉄道モノが多くあるのでしょうか?


一つは、列車の中は、駅から駅までが密室状態にあることです。特に現在は新幹線とか寝台特急は、停車区間が長く、ここで人が忽然と居なくなれば立派なミステリーの魅力の題材となり得ます。

又、日本の鉄道は、時間的に正確であり、犯行時間のアリバイ工作には、もって就けであることです。

ミステリーの醍醐味は、やはりトリックにあり、鉄道はこのようにアリバイトリックに格好の題材を提供してくれるもので、鉄道とミステリーには、大きな共通点があるからなのでしょう。