そのあとも灰田は以前と変わるところのない態度でつくるに接した。二人は日常的な会話を
自然に交わし、食事をともにした。灰田が図書館から借りてきたクラシック音楽のCDを、ソ
ファに座って一緒に聴き、その音楽について語り合い、読んだ本の話をした。あるいはただ一
緒に同じ部屋にいて、親密な沈黙を分かち合った。週末には灰田はつくるのマンションにやっ
てきて、夜遅くまで話し込み、そのまま泊まっていった。ソファに寝支度をととのえ、そこで
眠った。彼が(あるいは彼の分身が)夜中に寝室にやってきて、暗闇の中でつくるを見つめる
ことも--もしそんなことが実際に起こったとしてだが--もうなかった。つくるはそのあと
も、シロとクロが二人で登場する性夢を何度か見たが、そこに灰田が姿を見せることはなかっ
た。
それでも時折つくるは、自分の意識下に潜んでいるものを、あの夜の灰田はその澄んだ瞳で
見通していたのだと思うことがあった。そしてその凝視の痕跡を身のうちに感じた。そこには
軽い火傷にも似たひりひりとした痛みが残っているようだった。灰田はそのとき、つくるが密
かに抱いている妄想や欲望を観察し、そのひとつひとつを検分し俯分けした。そしてその上で
なおかつ、友人として交際を続けているのだ。ただそのような穏やかではない様相を受容し、
感情を整理し、落ち着けるために、隔離された期日が必要だった。だからこそ彼は十日間つく
るとの交流を断ったのだ。
もちろんただの推測に過ぎない。根拠を欠いた、ほとんど理屈の通らない憶測だ。妄想と言
うべきかもしれない。しかしそのような思いは執拗につきまとい、つくるを落ち着かない気持
ちにさせた。灰田に意識の内奥を隅々まで見透かされたのではないかと思うと、自分がじめじ
めした石の下に棲むみすぼらしい虫けらになり下がったような気がした。
しかしそれでもなお、多崎つくるはその年下の友人を必要としていた。おそらく他の何にも
増して。
第8章
灰田が最終的につくるのもとを去ったのは翌年の二月の末、二人が知り合ってハヵ月後のこ
とだった。そして今回、彼はもうそのまま戻らなかった。
学年末の試験が終わり、成績の発表があってから、灰田は秋田に帰郷した。でもたぶんすぐ
に戻りますよ、と彼はつくるに言った。秋田の冬はとんでもなく寒いし、二週間も家にいれば
飽きてうんざりしてしまいます。東京にいた方が気楽なんです、と彼は言った。ただうちの雪
下ろしを手伝う必要もありますし、いちおう帰らないわけにはいきません。しかし二週間が過
ぎても、二週間が過ぎても、その年ドの友人は東京に戻らなかった。連絡ひとつなかった。
つくるは最初のうちそれほど気にしなかった。たぶん実家の居心地が思ったより良かったの
だろう。あるいは例年より雪が多く降ったのかもしれない。つくる自身は三月の半ばに三日ほ
ど、名占屋に戻ることになった。戻りたくはなかったが、まったく帰郷しないわけにもいかな
い。もちろん名古屋では雪下ろしの必要はないが、母親はひっきりなしに東京に電話をかけて
きた。学校が休みなのにどうして家に帰ってこないのかと。「休みの間に仕上げなくちゃなら
ない大事な課題があるんだ」とつくるは嘘をついた。しかしそれでも二、三日くらいなら帰れ
るでしょうと母親は強固に言い張った。姉も電話をかけてきて、おけさんもずいぶん淋しがっ
ているし、少しだけでも帰ってあげた方がいいと言った。わかった、そうする、とつくるは言
った。
名古屋に戻っている間、夕方に犬を連れて近所の公園まで行くのを別にすれば、彼はまった
く外出をしなかった。かつての四人の友人たちの誰かと道で出くわすことを恐れたからだ。と
くにシロとクロと交わる性夢を見るようになってからは、生身の彼女だちと顔を合わせる勇気
は、つくるにはとても持てなかった。それは想像の中で彼女たちをレイブしているのと同じこ
とだからだ。たとえその夢が自分の意思とは繋がりのないものであり、彼がどんな夢を見てい
るか相手に知りようがないとわかっていてもだ。あるいは彼女たちは、つくるの顔を一目見た
だけで、彼の夢の中で何か行われているかを、すべてを見抜いてしまうかもしれない。そして
彼の汚れた身勝手な妄想を厳しく糾弾するかもしれない。
彼はマスターベーションをできるだけ抑制していた。行為そのものに対して罪の意識を感じ
ていたからではない。彼が罪の意識を感じるのは、そのときにシロとクロの姿を思い浮かべず
にはいられなかったことに対してだ。何か別のことを考えようとしても、必ず彼女たちがそこ
に忍び込んできた。しかし自慰を控えるぶん、祈にふれて性夢を見ることになった。そしてそ
こにはほとんど例外なくシロとクロが登場した。結局は同じことだ。しかしそれは少なくとも、
彼が意図して思い浮かべたイメージではなかった。もちろん単なる言い訳に過ぎなかったけれ
ど、彼にとってはその言い換えに等しい弁明が少なからぬ意味を持っていた。
それらの夢の内容はほぽ同じだった。見るたびに設定や、行為の細部が少しずつ異なってい
たが、彼女たち二人が裸で彼に絡みつき、指や唇で彼の全身を愛撫し、性器を刺激し、性交に
至るという展開に変わりはない。そしてつくるが最後に射精する相手は常にシロたった。クロ
と激しく交わっているときでも、最後の段階が近づき、ふと気がついたときにはパートナーが
入れ替わっていた。そして彼はシロの体内に粘液を放出していた。そのような決まったかたち
の夢を見るようになったのは、大学二年生の夏に彼がグループから放逐され、彼女だちと会う
機会が失われてしまってからだった。つまり、つくるがその四人のことをなんとか忘れてしま
おうと心を固めてからだった。それ以前にそのようなパターンの夢を見た記憶はない。なぜそ
んなことが起こるのか、もちろんつくるにはわからない。それもまた彼の意識のキヤビネット
の「未決」の抽斗に深くしまい込まれている問題のひとつだ。
とりとめのないフラストレーションを胸に抱いたまま、つくるは東京に戻った。しかし相変
わらず灰田からの連絡はなかった。プールにも図書館にも、彼の姿は見当たらなかった。寮に
何度か電話をかけてみたが、そのたびに沃田は不在だと言われた。考えてみれば、秋田の実家
の住所も電話番号も知らない。そうこうしているうちに春休みが終わり、学校の新しい年度が
始まった。彼は四年生になった。桜が咲き、やがて散った。それでもその年下の友人からの連
絡はなかった。
彼は灰田の住んでいる学生寮まで足を運んだ。灰田は先の学年が終了した時点で退寮届を出
し、荷物もすべて引きヒげたと管理人に教えられた。つくるはそれを聞いて言葉を失った。退
寮の理由についても、移転先についても、管理人は何ひとつ知らなかった。あるいは何ひとつ
知らないと主張した。
大学の事務局に行って学籍簿を調べてみると、灰田が休学届を出していることがわかった。
休学の理由は個人情報であるとして教えてもらえなかったで灰田は学年末の試験が終わった直
後に自らの手で、捺印した休学届と退寮届の書類を出しているということだっが、彼はその時
点ではまだつくると日常的に顔を合わせていた。プールで一緒に泳ぎ、週末にはつくるの部屋
にやってきて泊まり、夜遅くまで話し込んだ。にもかかわらず、灰田は休学のことをつくるに
はまったく伏せていた。何事もなさそうににこやかに「二週間ばかり秋田に帰ってきます」と
告げただけだ。そしてそのままつくるの前から姿を消した。
もう灰田に会うことはないかもしれない、つくるはそう思った。あの男は何かしらの堅い決
意をもって、何も言わずおれの前から姿を消したのだ。それはたまたまのことではない。そう
しなくてはならない明確な理由が彼にはあったのだ。その理由がどのようなものであれ、灰田
はもうここに戻ってはこないだろう。つくるのその直観は正しかった。少なくとも彼が在学し
ている間、沃田が大学に復帰することはなかった。彼から連絡が来ることもなかった。
不思議なことだ、とつくるはそのとき思った。灰田は自分の父親と同じ運命を繰り返してい
る。同じように二十歳前後で大学を休学し、行方をくらましている。まるで父親の足跡をその
ままなぞるように。それともあの父親のエピソードは、沃田の作り上げたフィクションだった
のだろうか? 彼は父親の姿を借りて、自分自身についての何かを語ろうとしたのだろうか?
しかし今回の灰田の消滅はなぜか、前のときほど深い混乱をつくるにもたらさなかった。彼
に捨てられ、去られたという苦い思いもなかった、灰田を失ったことによって、彼はむしろあ
る種の静けさに支配されることになった。それは奇妙に中立的な静けさだった。どうしてかは
わからないが、灰田が自分の罪や汚れを部分的に引き受けて、その結果どこか遠くに去って行
ったのではないかという気さえした。
灰田がいなくなったことを、つくるはもちろん淋しく思った。残念な結果だった。灰田は彼
が見つけた本当に数少ない、大事な友人の一人だった。しかしそれは結果的にはやむを得ない
ことだったのかもしれない。灰田があとに残していったのは、小さなコーヒーミルと、半分残
ったコーヒー豆の袋と、ラザール・ベルマンが演奏するリストの『巡礼の年』(LP.三枚組)、
そしてその不思議なほど深く澄んだ一対の眼差しの記憶だけだった。
その五月、灰田がキャンパスを去ったことがわかった一ヵ月後、つくるは初めて生身の女性
と性的な関係を持った。彼はそのとき二十ー歳になっていた。二十一歳と六か月だ。彼は学年
の初めから実習を兼ねて、都内の設計事務所で製図のアルバイトを始めており、相手はそこで
知り合った四歳年上の独身女性だった。彼女はそのオフィスで事務の仕事をしていた。小柄で
髪が長く、耳が大きく、美しい形の脚を持っていた。身体が全体的に密に凝縮されているとい
う印象があった。顔yちは美人というよりむしろキユートだった。冗談を言うと、きれいな白
い歯を見せて笑った。つくるがその事務所で働き始めたときから、彼女は何かと親切にしてく
れた。自分か個人的に好意を持たれているのを感じた。二人の姉と一緒に育ったせいだろう、
彼は年上の女性といると自然に寛ぐことができた。彼女はドの姉とちょうど同い年だった。
つくるは機会を見つけて彼女を食事に誘い、そのあと自分の部屋に誘い、それから思い切っ
てベッドに誘った。彼女はどの誘いも断らなかった。ほとんどためらいもしなかった。つくる
にとっては初めての体験だったが、それにしては何もかもがスムーズに運んだ。最初から最後
まで戸惑うこともなく、気後れすることもなかった。そのせいで相1は、つくるが年齢のわり
に性的な経験を十分に積んでいると思ったようだった。実際には夢の中でしか女性と交わった
ことがなかったにもかかわらず。
つくるはもちろん彼女に好意を抱いていた。魅力的な女性であり、利発だった。灰田が与え
てくれたような知的な刺激は求めるべくもなかったが、明るい気取りのない性格で、好奇心に
富み、話をしていて楽しかった。性的にも活発だった。彼は彼女との交わりから女性の身体に
ついての多くの事実を学んだ。
彼女は、料理-それほどうまくなかったが、掃除をするのが好きで、つくるのマンションは
ほどなくすっかりきれいに磨き上げられた。カーテンもシーツも枕カバーもタオルもバスマッ
トも、すべて新しい清潔なものに交換された。灰田が去った後のつくるの生活に、彼女は少な
からぬ彩りと活気を与えてくれた。しかしつくるがその年上の女性に積極的に接近し肉体を求
めたのは、情熱のためでもなく、彼女に対する好意のためでもなく、あるいは口々の淋しさを
紛らわせるためでさえなかった。彼がそうしたのは、自分が同性愛者ではないことを、また自
分が夢の中だけではなく、生身の女性の体内にも射精できることを自らに証明するためだった。
それが--つくる自身はおそらく認めなかっただろうが--彼にとっての必要な目的だった。
そしてその目的は達せられた。
週末に彼女はつくるのところにやってきて泊まっていった。ほんの少し前まで灰田がそうし
ていたように。そして二人はベッドの中で時間をかけて抱き合った。明け方近くまでセックス
を続けることもあった。彼は性交をしているあいだ、彼女と彼女の肉体のことだけを考えるよ
うに努めた。その作業に意識を集中し、想像力のスイッチを切り、そこにはないすべてのもの
ごとを--シロとクロの裸体や灰田の唇を--できるだけ遠い場所に追いやった。彼女は避妊
薬を飲んでいたので、彼は心置きなく彼女の中に精液を放出することができた。相手は彼との
性行為を楽しんでいたし、満足しているようにも見えた。オーガズムに達すると不思議な声を
上げた、大丈夫、おれはまともなのだ、とつくるは自分に言い聞かせた。おかげでもう性夢を
見ることもなくなった。
その関係はハヵ月ほど続き、それからお互い納得の上で別れた。彼が大学を卒業する直前の
ことだ。そのときには既に電鉄会社への就職が決定しており、設計事務所でのアルバイトも終
了していた。彼女はつくると交際しながら、その一方で故郷の新潟に幼なじみの恋人を持って
おり(情報は最初から開示されていた)、四月に彼と正式に結婚することになった。設計事務
所を辞め、婚約者が働く三条市で暮らす。だからもうあなたとは会えなくなるの、とある日ベ
ッドの中で彼女はつくるに言った。
「とても良い人なのよ」と彼女は彼の胸に手を置きながら言った。「たぶん私には似合いの相
手だと思う」
「君ともうこうして会えなくなるのはとても残念だけど、たぶんおめでとうとはうべきなんだ
ろうね」とつくるは言った。
「ありがとう」と彼女は言って、それからページの端に小さな書体で脚注を添えるみたいに、
「またそのうちに、あなたと会える機会があるかもしれないけど」と付け加えた。
「そうなるといいね」とつくるは言った。しかしその脚注が具体的に何を意味しているのか、
彼にはよく読み取れなかっかこ婚約昔が相手でもやはり同じような声を上げるのだろうかと、
ふと考えただけだった。それから二人はもう一度セックスをした。
週に一度彼女と会えなくなるのが残念だというのは本当だった。生々しい性夢を回避するた
めにも、現在という時間に沿って生きていくためにも、彼は決まった性的なパートナーを必要
としていた。とはいえ、彼女の結婚はつくるにとってむしろ好都合だったかもしれない。その
年上のガールフレンドに対して、穏やかな好意と健康的な肉欲以上のものを感じることが、彼
にはどうしてもできなかったから。そしてまたそのとき、つくるはまさに人生の新しい段階に
足を踏み入れようとしていたのだ。
PP.125-134
村上春樹 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
ネットでピックアップ (二例)
Q:村上春樹の作品で性描写がない作品はありますか?あれば教えてください。
A:絵本『ふしぎな図書館』、
短編集『東京奇譚集』、
長編『アフター・ダーク』
Q:性描写がこんなにもでてくるのには何かワケがあるんでしょうか?
A:・・・初期の作品の繊細さは読者に清冽な印象を与えたものですが
性描写が多いといっても、何か淡々とした料理のテキストみたいな
感じで描かれていそうな気がします。
【環境リスク本位制に突入】
オクラホマ州で巨大な竜巻が発生した遠因には、進行する温暖化があるとされる。日本でも6月か
ら竜巻のシーズンに突入するが、将来はスーパーセル(巨大積乱雲)などの気象条件が増え、激し
い竜巻が頻発する可能性があるという。気象庁によると、国内の竜巻(平成3~24年の月別合計)
は6月から増え始め、9、10月でピークに達する。近年は温暖化に伴い海面水温が上昇、大気中
の水蒸気量が増えることで積乱雲が発生しやすい状況が生まれているという。新潟大の本田明治准
教授(気象学)は「夏の暑さが長引く一方、北からこれまで同様に寒気も入ってくる秋は、竜巻が
発生しやすい環境になる」と指摘。米国ほどの規模の竜巻が生じる恐れは少ないが、「国内最大級
となった昨年5月のつくば市を襲った竜巻と同規模のものが増える可能性はある」。
当然、将来的に国内の竜巻被害はさらに増えるだろう。気象庁気象研究所は、竜巻が起きやすい気象状況
が、2075~99年に、春(3~5月)は西日本や関東などで2、3倍、夏(6~8月)は日本海側などで倍増する
と予測。突風の強さを示す6段階の「藤田スケール」のうち、住宅の屋根をはぎ取り車を吹き飛ばすとされる
F2(約7秒間の平均風速50~69メートル)以上の竜巻が最大で年15回ほど発生する可能性が出てくると
いう。同研究所の加藤輝之室長が「現在は激しい竜巻が発生しにくい東北や北海道でも発生する可能性が
ある」と指摘しているという。
このようなことが常態化すれば、人類は「環境リスク」を常に測定し行動していなくてはならなく
なるが、その原因として地球温暖化(人為説)が寄与していることは間違いない。そしてその影響
力をかってブログで水蒸気量と表面エネルギーの増大で推定した(『壺の中の霧』)ことがあった
が、取り敢えずは目先の対応策が急がれる。今回の米国の竜巻禍を見ているとシェルター型住宅の
普及(あるいは公共施設および産業用施設の)は避けられないと考えられる。そこで、テキサス地
域ではドーム型住宅が普及し始めているということでネット検索してみると、秒速133メートル(
≒時速三百マイル)にも耐えることができるという。日本でも関連メーカが存在するから、早急に
調査審議→法整備→政策実行(「レジリエンス国債」)すべきだと考えるが如何に。