極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

変換効率25%超時代

2014年03月24日 | デジタル革命渦論

 

 

【変換効率25%アップ時代 そのⅠ】 

メガソーラーで起こるPID(高電圧印加劣化現象)が、CIGS太陽電池モジュールでも起きる
どうか産総研で評価したという。その結果
CIGS 太陽電池はシリコン系太陽電池に比べ劣
が大幅に小さく、高いPID 耐性をもつことがわかったとい。出力低下の原因は、カバーガラス
から拡散するナトリウムイオンなどであることを確認た上で、封止材のEVA(エチレンと酢
酸ビ
ニルの共重合体)より2桁体積抵抗率が大きいアイオノマー(少量のイオンを導入したエチレ
ンとメタクリル酸の共
重合体)に替えることで、長期のPID 試験で劣化が見られなかったとい
う。

●アイオノマーの特性

 
※デュポン社:サーリン(R)等の名称で製品化。

●試験方法と成果

下図は、CIGS 太陽電池の標準型モジュール(左)とPID対策モジュール(右)の構造を示して
いる。 標準型モジュールは、カバーガラス(白板ガラス)、封止材のEVAフィルム、CIGS
ブモジュール、バックシートを重ね合わせて、空ラミネートすることにより作製。また、
対策
モジュールは、封止材にEVAフィルムの替わりにアイオノマーフィルムを用いて
、同様にモジ
ュールを作製している。アイオノマーは高い体積抵抗率をもつことから、結晶シリコン太陽電
池においても封止材に用いるとナトリウムイオンなどの拡散を防ぎ、高いPID 耐性を持つ。結
晶シリコンならびに薄膜シリコン太陽電池モジュール、標準型CIGS 太陽電池モジュールの太
陽電池特性の変化を評価(試験条件は、~1000 V、85 ℃、2時間~7日)。PID
試験前後の
各太陽電池モジュールにおける出力の相対値の変化を下図のように現れている。結晶シリコン
太陽電池モジュールでは数時間、薄膜シリコン太陽電池モジュールでは3日の試験で、出力が
数%以下まで大幅に低下した。これに対して、標準型 CIGS太陽電池モジュールでは、3日後
で92%、7日後でも46%の出力を維持。材料や構造、劣化メカニズムが異なるため単純比較は
できないことを踏まえても、同一PID試験条件で比較した場合、CIGS太陽電池はシリコン系太
陽電池に比べて高いPID 耐性をもつといえるだろう。




このように化合物系がシリコン系太陽電池を変換効率や環境耐性、あるいは光補集率においても
抜されかねない状況下にあることをみているわけであり、モジュール変換効率でいえば、25%
超時代に突入していること、またそのことはポスト・メガソーラー時代、換言すれば、分散型
太陽光発電社会(オールソーラシステム)の本格的な普及期に突入しつつあることを目の前に
している現在がここにある。 

                                  この項つづく

 

 

 1999.09

 

【アベノミクス第三の矢 僕ならこうするぞ!】 

 ここでは、平和主義はいいことだが、こちらからしかけなくても、攻撃される心配はある。
一自分で
は何もできない今の状態に不安も感じるのだがという問いかけに吉本は「国家と国家
がかねてから仲が悪かったが、片方の国が力にまかせて、もう一方の 国が経済封鎖や資源封
鎖や軍事封鎖によって存立できないほど追いつめられて、これ以上圧迫されたら主権国家とし
て解体されると判断されるようになったとき国家間戦争が勃発する」「(戦争するかどうか)
国民投票にかけないのは絶対に駄目」と主張している。その意味では、現在進行形のクルミア
併合やウクライナ問題は、ロシアなど中国を含めたアジアの後進性や現代の覇権主義を学習す
る格好の教材となろう。さて、経済政策論から離れるが「戦争論」を議論しておくことは人類
の歴史認識に、あるいは、人類の進化の確認とその社会化(=合意形成)にとってとても重要
なことだ。いよいよこのシリースも佳境に入る。

 ●今の日本で戦争は起こるか

  北朝鮮を当面の仮想敵国と考えたと想定します。
  僕は戦争は今の情勢ではありえないと思っています。戦争というのは、弾を撃ち込んだ
 とか、ミサイルが上空を飛び越していったとか、誤って日本の国土に落ちたとかそういう
 脅しや事故みたいなことを何回かやったとか、あるいは脅しだけのつもりだったのが、偶
 然に日本国内に落っこちて犠牲者が出た、ということがあったとします。そういうことが
 いかに重なっても、戦争にはならないと思っています。 
  
偶然に弾が落ちたとしても、上空を通して脅すつもりだったんだけど、たまたま事故で
 落ちて人が死んだ。これはけしからん挑発行為だから、いついつまでに損害を弁償しろ、
 という要求をして交渉がはじまるとか、口喧嘩がはじまるとか、いろいろあるでしょう。
 そういうことは起こるでしょうが、それ以上のことにはならないのです。そういうのは、
 戦争とは質の違うことです。そこから戦争までには壁がいくつもあって、その壁を越える
 だけの条件がいくつも出てこなければ、戦争にはなりませんよ。
  そう思うから、僕はそういうことがいくら重なっても、それはそれで戦争勃発の不安材
 料になることはないだろう、と思っています。だから僕らのような国民一般が、これはど
 うしても戦争になると判断する機会はただ一つだと思った方がいいです。
  それは国家と国家がかねてから仲が悪かったが、片方の国が力にまかせて、もう一方の
 国が経済封鎖や資源封鎖や軍事封鎖によって存立できないほど追いつめられて、これ以上
 圧迫されたら主権国家として解体されると判断されるようになったときです。
  それ以外だったら、どんな挑発行為や脅しや理不尽と思える武力圧迫があっても、戦争
 にはならないと思っていてください。政治家とか、政党とか馬鹿な識者、知識人、報道機
 関を含めて、国民の不安をかき立てるような言論を吐いても、惑わされないでください
 落着いて、感情に走らないでください。僕は自分の戦争体験と実感からそう確信していま
 す。
  戦争に対する見方というのはいろいろあって、僕自身の中でも戦争とは何だという考え
 方の段階があります。今の話の段階で言えば、ある国家とある国家の利害がまったく反す
 る、片方の利益を通せば、片方は害しかない、その害もそのまま放置しておけば一方の国
 家が自然に亡びるような、そういう条件があれば、もちろん戦争もあると思います。少な
 くともそれに近い条件がなければ戦争にはならないと思っているわけです。

 ●戦う平和主義、逃げる平和主義

  平和主義にもいろいろあって、と言うのはおかしいけど、社民党の平和主義と、共産党
 の平和主義と、僕らの平和主義とはまた違うと思います。僕らの平和主義といったら、今
 のような国家、あるいは集団の発達段階であれば、まず戦争は起こらないよと考えるのが
 平和主義の一条件。
  それに加えて、日本国はせっかく憲法で非職条項、戦争を放棄するといって、自分のほ
 うからしかけることはしないと決めているんだから、それを守るのがいいでしょう、とい
 うのが平和主義のもう一つの条件ですね。
  憲法第九条の非職条項は、ちょっと考えると空想的で現実離れしていると考えやすいで
 す。けれど、世界各国の憲法を読んで調べればすぐわかりますが、あの第九条の非職条項
 は、資本主義国にも社会主義国にもない、もっとも理想主義で高度な条項なのです。つま
 らない政党や政治家のあやふやな気分で変てしまうような幼稚なものではなく、百万人単
 位の日本国民の民衆の死と、相手国の民衆の死をあがなって、やっと手に入れた理想なん
 です。
  それから、社民党とか共産党と違っちゃうところもあると思うんです。いろんな段階で
 いろいろみんな違っちゃうんですけど、最初の段階だけでいえば、今言ったことと、もう
 一つの違いは、もし万が一、どこかの国が攻めてきて日本国内をめちゃくちゃに荒らして、
 人も殺すし、悪いこともするし、というようなことが起こったらどうするんだ、平和主義 
 のお前はどうするんだって言ったら、そのときは個人の喧嘩と同じで何でもするさって、
 僕はそうですね。別に自衛隊がやる、やらないは関係ない。やりたいやつだけやればいい
 じゃないかってことです。部分的に職うっていうことかもしれないし、これは個人の喧嘩
 と似ているんじゃないでしょうか。
  ナイフも何も持っていない女の人がここにいて、話をしてたんだけど、いきなり変なぞ
 つがやってきてその女の人を刺したとする。そういうのは頭がおかしくなければ、ちょっ
 と狂ってなければできないんですよ。人間ていうのは、相手がちっともその気がないのに、
 いきなり攻撃して、殺したりするっていうのは、正気ではできない。そういう意味合いで
 は、人間というのは、一人の人間も殺せないんですよ。
  お前、誰かを殺してみろって言われたって殺せないです。動機も契機も何もなくてはそ
 れはできない。人間ていうのは、それはできないように生まれついているんですよ。だけ
 ど、何か理由があって、というんだと別で、社会の常識や法律が否定しても、それはでき
 る。
  正当防衛もありますし、しゃくに触ったというのもあるかもしれないし、我慢の限度だ
 というのもあるでしょうし、争いごとは嫌いだからその場を去ることも、それはいろいろ
 あるでしょうけど、理由も原因も何もないのに、おとなしくしてるところにやってきて、
 いきなり殺しちゃったというのは、それはできないでしょう。
  それは一つの国であっても同じだと思います。平和主義、平和主義と言っても、それは
 能書きだけだと言えばそのとおりなんです。普段から平和主義、平和主義と言っていると
 あの人は平和主義だと恩われて、なかなか仕掛けることはできない。そういうこともある 
 と思います。
  だけど、どうして平和主義にいろいろあるか。それは、社民党も共産党も、じゃあ平和
 じゃなくなったら、戦争になったらどうするかっていうと、そのときは逃げると言うでし
 ょうね。彼らはたいていそうだと恩いますよ。だけど、本当の平和主義というのは、それ
 でもやってきて乱暴をはたらいたとか、何もしない同胞を殺したとか、悪いことばかりし
 ているやつを目の前に見ていたら、それなら逃げないよ、戦うかもしれないよっていうこ
 とだと恩います。
  僕の平和主義はそうですね。だから、平和主義でもそこから分かれちゃうんです。僕は、
 ただ逃げる平和主義とは違います。目の前でやられても黙って見ているなんてことはしな
 い。人倫に反すると思ったら、同じように恩っているやつと密かに語らって戦う。自衛隊
 がどうであろうと、そうなったら関係ない。僕はそうなりますね。
  平和主義なら逃げちゃえばいいじゃないかって、それもそうだけど、考えてみると、逃
 げるほうができにくいような気がするんです。僕はガソジーのように信念のある平和主義
 や非暴力主義ではないです。それだけの器量がないんです。

 ●戦争をやりたがる人々 

  そして、戦争はどうして起こるんだっていう場合、先ほど言いましたが、片方の言うと
 おりにしたら、片方は国家がつぶれる以外にないという場合には、戦争よりしょうがない
 じゃないか。そういうものだから戦争になっちゃうんだ、ということもありますし、そう
 じゃなくて、ある意図から、戦争をやれ、やれ、という考え方もあるわけです。
  平和主義の人でもそういう人たちがあって、自分は平和主義だけど、戦争をして自分の
 国がへとへとになって奮ってきたら、そのときに革命をやりたいから、そうなるように、
 戦争やれ、やれ、という人もいるわけです。ロシアの社会主義ないしロシアのマルクス主
 義はそういう考え方です。
  しかし、マルクスそのものはそうじゃないんです。マルクスは階級ということを言う人
 だから、戦争が起こったら弱い国家に味方しろって言ってるんです。自国の労働者階級は、
 どっちが弱いかわからないけど、相手が弱かったら相手のほうに加勢しろと言っている。
 つまり、強いほうに加勢するな、という考え方です。
  これは初期の、マルクス時代の戦争観です。ロシアになってレーニソ、スターリン時代
 になったら、今言ったように違っちゃって、戦争っていうのは革命のいいチャンスじゃな
 いか、という考え方で、戦争か革命か、みたいな考え方が流行ってきていたわけですね。
  だけど、もっと徹底した戦争観というのがあって、戦争というのは、一見すると、この
 国とこの国の利害が対立してチャンバラをするというように見えるけど、本当はそうじゃ
 なくて、相手の国の民衆によって自分の国の民衆を殺させることだという定義があるんで
 す。つまり「相手の国の労働者、民衆によって自分の国の労働者、民衆を殺させることだ
 から、戦争は絶対に駄目だ」という考え方。これは平和主義といっても、レーニン、スタ
 ーリンの平和主義ともまるで違う平和主義です。でも、徹底的な平和主義なんですよね。
  毛沢東は戦争には正義の戦争と不義の戦争とがあると言っています。ここまでくれば戦
 争肯定そのものです。戦争というと、国と国が戦うみたいだけれども、本当は自分の国の
 民衆を相手の国の民衆に殺させることで、どっちにしても支配者は損をしないでどちらか
 の国の民衆が損をするだけだ。だから、戦争なんて絶対やるなっていう、これがいちばん
 徹底した考え方です。これはフランスの女性の思想家のシモーヌ・ヴェイユという人が言
 ったんです。
  そう言って彼女は、ロシアのマルクス主義に反対だと言ったんですけどね。これは絶対
 平和主義なんです。言ってることが徹底してるんです。僕が知っている限りでは、彼女の
 戦争観あるいは平和観がいちばん徹底していますね。あとの人はそんなに考えちゃいない
 ですよ。被支配者に何はともあれ味方しないといけないと、その程度に考えているにすぎ
 ないのです。
  マルクスは民族国家が出来はじめて、どんどん優勢になってきた初期だから、支配され
 ている人間、民衆が弱いほうに味方しろ、と言いました。
  それがレーニン、スターリンになったら、そうじゃなくて、ある意味で戦争というのは
 革命の絶好のチャンスだから、やれ、やれ、となったんですよ。やれ、やれと言わないま
 でも、普段は平和主義と言ってるんだけど、いざとなったら、やれ、やれのほうで、国家、
 民族がくたびれればくたびれるほど、革命の機会は多くなる、という考え方です。しかし
 戦争論議も革命論議も、この種の論じ方で片づけようとすると泥沼ですね。行きつく先は、
 一国社会主義連合と世界資本主義の国家連合との対立になり、より歴史の移り行きに忠実
 なほうが生き残り、すなわち現在のような事態になります。
  それは論議に価しない論議です。つまり思想も理念もへちまもない、力の強いもの、富
 める国が勝つという事実阿呆らしさだけしか残らない
  核実験反対とか、反核運動とか、日本でも大江健三郎さんなんかがよくや、ていたでし 
 ょう。あれは、アメリカのミサイルが日本の基地に来てるじゃないか、それはけしからん、
 と言うんだけど、旧ソ連の核兵器は日本に向けて極東地区に揃ってたんだけど、そのこと
 については一言も触れない。これは不思議じゃないかって思います。
  核兵器は社会主義が好きな人には当たらないようにできてるわけじゃない。誰にでも当
 たるし、当たれば死んじゃうのに、どうして片方だけしか言わないんだ。世界をそんな風
 に色分けしてしまうロシア・マルクス主義の衰退廃の果てが気に入らないです。レーニン、
 スターリンの思想で頭がいかれたんだな、とさえ思ってしまいます。
  それから、平和主義って言うけど、自衛隊に戦争を任せっきりにして、自分は逃げちゃ
 うくせに、平和主義なんて言うなということです。
 
 ●「人殺しはなぜいけないのか」への答え

  前にテレビの大学生が参加していた討論会で、一人が「何で人を殺しちゃいけないんで
 すか」って聞いたら、そこにいた大人がとっさにこれにまともに答えられなかった。その
 中で一人だけ「人を殺していい状況が一つだけある。それは戦争だ」と言っているのが精
 一杯でした。そのとき冗談じゃない、戦争だって人殺しはいけないよ、と思いました。ま
 たそういう本を出した精神科医や社会学者がいました。
  僕は全体が違うと思いますね。「どうして人を殺しちゃいけないんですか」と聞いた人
 に、「それなら、俺が許すから殺してみな」と言ってみるといい。僕なんかが出る幕では
 なくて、中世の思想家がすでに言ってるんですよ。「ナイフをやるから俺でも隣りの人で
 誰でももいいから殺してみな」と言えば、その疑問は飛んでしまうと思うんです。それは、
 そうなっても百%はわからないでしょうけど。
 「どうしていけないかと言うけど、殺してみろと言われてもあなたは殺せないじゃないで
 すか。自分の本当の気持、実感からくる考えから行けば、やっぱり殺さないというほうが 
 正しいんです。人間は契機がなければ一人の人間も殺せません。また契機があれば殺した
 くなくてもたくさんの人を殺してしまいます。良いか悪いかのまえに、偶然にしろ必然に
 しろ、契機があるかないかがまず介在するわけです。当然じゃないか。あなだだってそう
 だろう」ということになります。
  そして、戦争は唯一例外だと言った人もおかしいです。例外でもなんでもない、それだ
 ってよくないんですよ。よくないんだけど、国家の指導者が、やれ、やれ、というからや
 
っちゃう。それに同意してしまうわけです。
  でも、それだっておかしいんですよ。そのときだけ許されて法律にひっかからないで、
 個人的に殺した場合は法律で殺人罪に問われる。そんなのおかしいと思います。戦争だっ
 ていけないんですよ。戦争の殺人だって、殺人だからいけない。どうしてこれは許される
 んだろうかといったら、国家の法律は「国家になりそこなった国家」のことですから、国
 家間の殺し合いである戦争の殺人を裁けないというだけで、決して許されているわけでは
 ありません。

                    -中略-
 
 ●敗戦後、僕はどう「転向」したか
 
  かつて戦争中の自分は、若さにまかせて、逃げちゃうっていうのは許せないってなって
 思ってたんです。僕は戦後いろいろ熟慮できたもんですから、逃げちゃうという人がいて
 もいいと思うようになってます。いてもいいから、そうならそうと言ってくれよって、そ
 れが悪いとは言わないから、というところまでは、自分はきたような気がしてます。 
   だけど、攻めて来たら我慢できないからやっちゃうかもしれないという、僕ぐらいの不
 徹底な平和主義と、逃げちゃうという不徹底な平和主義とは、だいたい同じなんじゃない
 ですか。裏返しで、どちらも似たりよったりで、やっちゃうと言うとかっこがいいと思う
 のと、あいつ馬鹿だなあ、逃げちゃえばいいじゃないかっていうのと、どちらもいると思
 います。どちらも不徹底な平和主義ということで、大して変わりばえしないわけです。こ
 れが一般的なのか、それとも、戦争してもいい、やれ、やれというのが多いのか、これば
 かりは、憲法改正を提起して、国民投票をしてみないとわからない。まあ、半々に近いと
 ころかと思います。
  ただ、平和主義であろうと何であろうと、憲法を変えなきやいけないというなら、ちゃ
 んと国民投票にかけないといけないです。内閣だけで納得してはいけないと思います。国
 民投票で、平和主義が多かったら平和主義で行く。平和主義が少なくて、いざとなったら
 やれ、やれというのが多かったら、国法に従うという意味では従いますが、個人の平和主
 義は捨てる必要はなく、主張されるべきです。
  じゃあ、お前も戦争やれ、やれのほうになっちゃったのかと言われたら、いや、もとも
 と平和主義なんだけど、こういう場合を想定すると、どうしてもやれ、やれ、になっちゃ
 うから、それが多数なら、それに従いますよということで、個人の主張は変りません。そ
 ういう言い方をすると思います。

                    -中略-

  ただ、自民党なんかと違うところは、国民投票にかけろっていうところなんです。民衆
 の大多数がどう出るか。自己主張はしてもいいけど、全体としてはそれに従うべきだと思
 うわけです。
  国民投票にかけないのは絶対に駄目です。誰がやろうと駄目、共産党がやろうと駄目だ  
 と思ってるわけです。国民投票にかけて、多数に従う。そして、後退するなら最後まで後
 退して、決して出て行くなと思うわけです。だけど、出て行くなというのは、出て行けと
 いうのと同じで、どこかに限度はあるわけです。百%はできないんですね。なぜなら、僕
 らにはそれだけの徹底した思想性がないからです

                    -中略-

 
 ●みんなと一緒に逃げる、これも一つの真実だ

  これは逃げの一手で、僕と同年代の三島由紀夫さんでも、友だちの村上一郎さんでも、
 みんなそうならなかったんですよ。そこまで俺は逃げないぞ、逃げられないぞって、村上
 さんは自殺しちゃいましたし、三島さんも自殺しちゃったんですね。それ以上逃げるのは
 耐えがたいということだったんだと思うんです。
  村上さんとか三島さんが自殺したときには、僕は僕なりに、俺は多数と一緒に徹底的に
 逃げるという考え方をつくっていたから、そういうふうにならなかったんです。そこまで
 逃げるのは生きていることにならない、というのがあの人たちの志だったんですね。
  村上さんは海軍の学生軍人だったけど、負けたっていったときに、総理大臣の東条英機
 をぶった斬るとか言って、陸軍省のあたりをうろうろしたという伝説を持った人です。そ
 して、アメリカ資本主義を生涯の敵とすること、といった条項をいくつか書いた人だから、
 どんどん逃げて、これ以上後退して生きてることは、意味がないと思ったんでしょう。志
 が無になる思いで。そういうことがあって自殺しちゃったんです。
  三島さんは、そういう意味ではちょっと遅ればせなんですね。村上さんと同じことを、
 戦後になってから自覚したんです。同じように、これ以上逃げたら志が立たないと思って
 割腹しちゃったんだと思います。
  僕らは、逃げろ、逃げろ、志もへちまもないと思い、といって逃げる方法を戦後に考え
 て、ただ一つ、自民党と違うところは、国民全般がそうならば、あるいは大多数がそうな
 らば、一緒に逃げようじゃないか。大多数がやるというなら、やろうじゃないですか、と
 いうのが違うところなんですね。
  共産党なんかと違うところは、革命だ、革命だって言ってるけど、いざとなったら逃げ
 ればいいんだ、俺は逃げちゃう、亡命すればいいと彼らは考えています。そこが違うんで
 すね。この人たちは、戦争中の日本の兵隊っていうのは、侵略戦争の先兵になって無駄死
 にだったと戦後言ったんです。
  しかし僕は、そんなことを言ったら、自分だって無駄死にに近かったわけだから、俺は
 そうは思わない、無駄死にじゃない。大多数の兵士が戦争に行って何百万人も死んだんだ
 から、この問題をなんとか整理しない限り、思想なんて何も成り立たないという考えで、
 結局
僕は、大多数が戦争するというなら戦争賛成だし、大多数が逃げるなら一緒に逃げる。
 それ以外にないじゃないの、という考えになっていったわけです。


                   「第12章 吉本隆明の戦争論」pp199-217

                        吉本隆明 著 『僕なら言うぞ!』
             
                                               この項つづく


台湾では 中台間の「サービス貿易協定」に反対して台湾の学生らが台北市内の立法院で占拠

しているという。いまのところよくわからないが、学生達の主張は協定による経済的弱者の救
済と言う側面より、中国共産党による専制支配化に異議申し立の側面が強いように思えるが、
さても、今夜中にやるべき作業を大半残したままだ、已んぬる哉
 。

コメント
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