極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

養鶏の二重化

2014年03月10日 | デジタル革命渦論

 

 

 

 

【養鶏の二重化】

英米でペットとしてのニワトリが人気だというテレビ映像が印象的だった。元々、19世紀に日
本や中国らから観賞用のニワトリが米国に輸
入さてていたからリバイバルなのかなとも思える。
養鶏とは、鶏(にわとり)を飼育することだが、農業分野の畜産の一種であり、採卵(鶏卵)
や食用(鶏肉)とする目的で鶏を飼うことをさす。大多数の肉用の鶏はブロイラーと呼ばれる
限られた特定の品種であり、採卵用の鶏をレイヤー
呼び区別するが、愛玩鶏の繁殖・飼育も
養鶏の扱いになるというから観賞用もまた養鶏に入ることになる。ところで、ひよこの雌雄の
選別は人手により行なわれている。このブログでも養鶏のことを書いた記憶があるが、小学校
の頃田舎に帰るとニワトリの鳴き声で起こされ、籾殻に入れておいた取れ玉子を朝食のご飯に
入れ醤油をかけいただく。なんとも贅沢な瞬間を思い起こしている。あの頃の玉子は、濃厚だ
ったんだねぇ~~。もっとも鶏肉も同様にもちもちコリコリとし美味かったものだった。

それにしても、ツィード・ジャケットを着たニワトリには驚いたが、そんなことがはやってい
るのかと感心もする。産卵量はは約40週間から60週間を過ぎると減衰するが殺処分しなければ
20年は共に生きることができる。そこで、ネット検索した程度だから誤解があるかもしれない
が、備品販売や愛玩方法に対する指導などあるが、治療や殺処分(葬送・食肉加工)などの総
合サービスをビジネス・プラットフォーム化できていないのではと考えた。なければ構築→事
業展開してはどうだろう。つまり本来的な養鶏(畜養生産)→大規模・集約養鶏(畜養生産)
から、先進諸国から超消費資本主義社会に突入し、愛玩(観賞)的養鶏(養鶏の二重化)→高
度分散型養鶏産業の創成に移行させようと言ってみせたわけだ。そう考えると実に面白い。

 

 

※ 参考情報リスト(クリック↓) 

 

 1999.09


さて、今夜は「「第8章 一夫一婦制がいいなんて、うそだよ」のお復習いだ。吉本自身、略
奪婚を経験しているので、この領域もかなりラジカルなヒントが埋め込まれている。わたし自
身は結構保守的だと思っているし、彼女の"一夫一婦制"の考えも相当保守的だ。


 ●
浮気も家庭内暴力も、自然なことだよ

 
  こういう男女関係のさまざまな形は、たぶん過渡的なものだと思うんですね。その次に
 来るのは、ほとんど大部分、半分以上が、男も女も、経済的にも独立して住んでいて、気
 が合ったら何カ月か何年か同棲して、また元に戻るとかいう形になっていくような気がし
 ます。
  その過渡期としてさまざまな形態があると思うんです。それにも関らず、結婚してその  
 まま一夫一婦制を守って年をとるまでそうするという人たちも、またなくならないと思い
 ます。そうすると、何がいい悪いって言ったらおかしいですけど、いまの段階でどれがい
 いのかっていったら、男女問題について、いい悪いは言うべきことでないかもしれないん
 です。

  
ただ、強いてどれが自然かといったら、今だったら、そういうさまざまな形態で、結婚
 したけど離婚して、また違う人と結婚して、それを何回もやったというパターソが一方に
 あります。また他方では一夫一婦制を守っているようだけど本当は双方が我慢に我慢を重
 ねて耐えている人たちも沢山います。どれが自然かといえば、何回も相手を取っかえたと
 か、浮気したとか、援助交際でときどきインチキしてとか、つまり一夫一婦というのは守
 り難いというところが、現在の日本の社会様態では自然だと思うんです。
  それをもっとはっきりした言葉で言ってしまえば、家族でいえば、親が家庭内暴力をす
 るか、子どもが家庭内暴力をするか、夫婦が家庭内暴力するかどれかであるというのが、
 今の目本の家族の普通の状態じやないでしょうか。
  それは潜在的であるか、顕在的であるかまではわかりません。それから、家庭内暴力と
 言ってもいろいろあって、本当に暴力っていうのもあるけど、精神的な家庭内暴力で、子
 どもをいつもいじめてるとか、勉強しろとかうるさいことばかり言ってるとか、あれだっ
 て精神的暴力です。遂に、親に対して子どもが、うるせえな、そんなうるさく言うともう
 学校行かねえぞ、みたいに言う。そういう精神的な暴力も含めていえば、親か子か、夫か
 妻かどちらかの家庭内暴力というのはごく自然、今の普通の状態じゃないかって思うんで
 すよ。


 ●一夫一婦制のただひとつのメリット

 
  そうすると、一夫一婦を守ってる人はどうなんだっていうことです。たぶんいまでも六

 割以上はそうだと思いますけど、それがいいっていう人もいるだろうし、悪いっていう人
 もいるだろうけど、僕はいい悪いは何にもないと思うんです。どういうところに特徴があ
 るかというと、これをいい点と言ってもいいんですけど、一夫一婦制を守っている人たち
 はいろいろ我慢していると思います。実際問題として精神的にも経済的もいろいろ不自由
 を我慢しています。家庭内暴力が普通になっている社会で、きっとどこかで自分を抑圧し
 て年をとるまで一夫一婦制を貫いている。
  となると、それこそユートピアなんだけど、ユート
ピア、つまり理想の社会が来たとき
 には、自由恋愛でこの人と一緒にいようと思って一緒に暮して、そのままずっと終りまで
 
全うするということが、狂いなくできるでしょう。
  つまり、理想の社会だから、相手を選ぶときから生活条件などを考えないで自由に選べ
 る。ほかの条件は考えないで、ただ人間的にこの人が自分にいいって選んで、向こうも選
 んでくれて、それで一緒になってという形で結婚しても、本当にいい人を選んだというこ
 とになるのも、理想の社会だったら可能です。だから、そういうふうに選んで一生そのま
 ま一夫一婦でいけるというのが理想の社会の状態と言えます。
  どう考えたってそうだと思いますから、それだったら、今のこういう社会で一夫一婦が
 実現してるというのは、とにかくやってるんだから、理想の社会を二重に背負っていると
 いうことを意味することになるでしょう。だけど現実には、こういう社会で一夫一婦制を
 やってる人は必ずどこかで我慢しています。どちらかが我慢してる。我慢をし切った、あ
 るいはほかの事情で我慢する以外になかった、ということで、一夫一婦の人は、いいこと
 だっていう意味は何もないんです。道徳的にいいこともへちまもない。いいことだという
 のは嘘であって、放蕩しようが何しようが、そんなことは道徳的に問われる問題じゃない
 と思います。そうすると、何がいいのかというと、理想社会の写しを自分の中に持ってい
 るということ。これだけです。
  だけど、現実にはちっとも理想ではないですよ。理想じゃないっていうことは、そうい
 う人たちに聞いてみればすぐわかります。本当に満足してるのかって聞いてみると、うち
 の亭主、しゃくにさわって殺してやりたいから一緒にいるんだなんて言うかもしれません。
  徹底してそう考えたほうがいい。一夫一婦制についてそれ以外の幻想を描くと間違えち
 ゃいます。
  相手を何人も取り替えていくのが悪いのかっていうと、そんなこともないです。その人
 はその人なりに心から好きになって結婚したけど、ちょっとそうじゃなかった、また違う
 入って思うようになったということで、決してそれを悪いことだとは言えません。


 ●性愛の極限を知る人とは


  もう一つ、放蕩する人とか、援助交際をする人みたいなのは、どこがいいんだってこと

 があるわけです。
  昔流にいえば、京の祇園で芸妓さんを自分なりに"女"にするという、彼女たちが一本
 ちのプロになるとき、これを水揚げというんですけど、それを得意とする放蕩旦那がい
 ぱいいた。そういう連中はどこがいいんだってことになると、僕はいい悪いはないと思
 ます。一夫一婦制を守った人には決してわからないような性愛の深さが本当にわかるのは、
 そういう人じゃないと駄目かもしれないです。一夫一婦を通した人は、本当には性っ
ても
 のをわからないで過ぎちゃうかもしれないです。

  だけど、思う存分に放蕩したっていう連中は、少なくとも、それだけはわかったって言
 えるかもしれません。ほかにはいいことなんてないです、これは一夫一婦制の人も同じで、
 えてして、一夫一婦制の人はいまでも多数ですから、いいと思われてるかもしれないけど、
 それは道徳の先生が言うことで、そんなの嘘だよっていうのはすぐにわかります。そうい
 う人はちゃんと辛抱してるんです。
  でなければ、事情があってそうしているということがあって、我慢してI生そいとげた
 みたいなことになるんですね。だから、これがいいっていうことを言う人は、それはそれ
 でおかしいんで、そんなことは決してないんです。
  本当の理想社会になれば、ある男にとってある女が一生の間一緒にいれるような人かど
 うかを、見間違えたり、評価のし連えみたいなことはないと考えたらいいんです。生活状
 態とか環境とか、容姿とか、そんなことは何も考えなくていい。理想社会では、選んだら
 そのまま死ぬまで行けるってことになると思います。
  しかし、それは理想社会の問題だといえば、その通りです。今の現実は最悪に近いとこ
 ろです。これで家庭崩壊、解体までいっちゃえば、男女が経済的にも別々にやっていく形
 になって、ときどき会うとか、何年同棲してまた別れるとかいうふうになっていくことは、
 十分にありえるでしょう。

 
 ●家庭崩壊後、子どもはどうなるか

  その場合に問題になるのは、子どもって何なんだということです。これはとても難しい
 問題だけど、難しさの芽生えは今でもすでにあるわけです。人工受精や胎外受精は是か非
 とかいう論議があります。あれはその徴候です。
  子どもとは何なんだ、子どもはどうするのがいいんだと、男女の性愛のはざまに、そう
 いう異世代問題が出てきました。それは人間の性愛が世代継承と分離して、男女の同時代
 愛が主なモチーフになってしまった人間の性愛の反自然性の成行きです。それはそれとし
 て、子どもの問題はどうするのがいちばんいいか、いずれ解決していくと思いますけど、
 さし当たって問題が起こるとしたら、それですね。
  今の状態はそこまではまだ行っていない。そこに行く途中のさまざまな形態が出てきて
 います。ただ、女の人が子どもを生むことにあんまり積極的じゃないということ。これは、
 出生率が下ってるという事実、特に日本は急速に下ってるわけですけど、あれは2.1
 下になったら人口は減るとされているのに、日本の場合は1.5を割り込んでいます。

  それほど急速に下っているわけで、子どもを生むことを女の人が躊躇することがある
 ということと、もう一つは、女の人が男なんて駄目なんだと馬鹿にするというか、一緒に
 なんか住んでいられないや、というふうになってくる。そういう傾向はもちろんあります。
 それは家庭が完全に解体する途中ですよね。だから、さまざまな形態でそういう徴候は今
 でもあるんじゃないですか。
  今いちばん普通なのはどういう家庭かというと、実際的か精神的家庭内暴力がある、こ
 れが今の家庭のいちばん自然な形だっていうのが僕の考え方です。放蕩するのは悪いかと
 いうと、それはちょっと悪いとはいえないよって、僕はそうなると思いますが、それと同
 じです。
  少しでも家庭内暴力があるのをいけないというのはおかしいと思います。それは国家の
 法律とか、人間を規制している社会道徳みたいなものが、社会の現状からはるかに遅れて
 いるんですね。それが今の混乱の状態を招いているのだし、また異常な出来事が起こっち
 ゃう根拠になっているんじゃないでしょうか。
  僕の考え方では、自由恋愛になったとしても、一夫一婦というのは守られていくだろう
 な、それが少なくとも最後まで残るだろうなっていうことです。今はいろいろな形態が出
 てきているけれど、結局は一夫一婦制だけになっていくだろうというのが、僕の考えるユートピアで
 す。
  自由奔放になっていくというふうには少しも思っていません。理想社会は、なってみな
 くちゃわからないけれど、今はまだ過渡期で、もう少し経つと、家族解体の形がそうとう 
 はっきりしちゃうんじゃないでしょうか
  それから子どもの問題です。僕は実際に親父にそう言って、あっ、いけないこと言った
 なと思ったことがあったんです。俺は生んでくれって言った覚えはないぞ、と言ったらぶ
 ん殴られるかと思ったら、そうじゃないんです。親父はものすごく悲しい顔、さびしそう
 な顔をして黙りこくっちゃったんです。それで、しまった、こんなこと言うべきじゃなか
 ったと思った。

  なぜ、そういうことがあるかっていうと、子どものほうからいえば、生んでくれって言
 ったわけじゃない、親のほうから言えば、お前なんか生もうと思ったわけじゃない、もっ
 といい子がほしかったんだとか、その程度のことしかお互いに言えないわけですよ。そこ
 だけはどうしようもないわけです。いろいろ親子の問題を生じる根本原因のところには、
 いつもその問題が存在しています。
  これは親が生もうとして子を生んでも同じです。これはいろいろな言い方があるんです
 けど、片方だけに義務、責任があって、片方には責任はないんだけど、そうなっちゃった
 という問題ですよね。片務的と言いますか。これは親と子の問題を難しくしているところ
 じゃないでしょうか。
  この問題をもう少しあばいちゃえば、大正から昭和の初年にかけて、辻潤というアナー
 キズム系の文士で、面白い人がいたんです。この人は、自分勝手の。いろはかる
た″をつ
 くって、「子はサンガーのミステイク」って、避妊するつもりだったんだけ
ど、ミステイ
 クしてできちゃったのが子どもなんだって言えば、これは少しうがった言い
方になるけど
 言えるかもしれません。
  つまり人間の性愛は子孫を生むためという自熱性に反して、男女の性愛の問題が前面に
 でてくる方向にすすんできたということです。


 ●人工受精でもクローン人間でも、親子の問題は変わらない

  現在はさらに人工受精とか、旦那さんに精子がなかったらほかの人の精子をもらってま
 でというのは、言ってみれば、子どもがほしいということで先に責任を持とうと思って生
 んでいるといえば、そうも言える。だけど、後でしまったと思うかどうかは別なんです。
 それでも片務的であるという点は同じで、子どもにしてみれば、お前たちがそんなことま
 でしたとしても、やっぱり俺は生んでくれと頼んだ覚えはないということになる。
  この理屈は理屈であるけれども、親子問題のいちばんの弱点ですよね。生むつもりじゃ
 なかったんだけどっていう場合もあるし、お前みたいな変な子どもを生むはずじゃなかっ
 たのに、お前みたいなのができちゃったという言い分もあるわけで、これはちょっと困っ
 ちゃうんですが、その問題の延長線で、人工受精とか、体外受精とか、もっと発達すれば、
 胎内と同じ条件を人工的につくれるとすればそこでつくっちゃうということもあるでしょ
 う。クローソ人間みたいにつくるとか、そういうことが問題になってるわけで、それは、
 そういうことが科学的にはできるということを意味してます。人間なんてつくろうと思え
 ば人工的につ
くれるんだっていうことです。そういうことは、医学的に、科学的に、ある
 いは生物学的にはっきりし
てきちゃったよ、という問題です。
  こういう、子どもとは何なんだという問題は、解決はなかなか難しいことで、ずっと続
 いていくんじゃないですかね。
  人工受精になっても続いていくし、もしかして体外受精になっても、人工胎内をつくっ
 てそこでっていうふうになっても、そういう問題は出てくる。もちろん、クローン人間が
 できるようになって、実際につくっちゃっても、その問題は残ることになってくるんじゃ
 ないでしょうか。当分の間ずっと尾を引いていくと思います。
  人工胎内がうまくできて、プロ野球の選手を1チーム分つくっちゃうとか、そういうこ
 とだってありえるわけですよ。
  これらの問題は将来起りうるとしても、現在は空想、あるいは架空のイメージに属しま
 す。思考を費やすことは悪くありませんが、中途半端に倫理感を導入したりせずに、とこ
 とんまで考えたうえで胸のなかに収めておくのがいいと思います。


             「第8章 一夫一婦制がいいなんて、うそだよ」PP.147-158

                                                               吉本隆明 著 『僕なら言うぞ!』
             
                                                                  この項つづく


いまのわたしの生活状態なら、一夫一婦制を必要としているというしかないわけで、まして、夫婦別姓
といわれても戸惑いうだけで首肯しないまでも、「中途半端に倫理感を導入したりせずに、とことんま
で考えたうえで胸のなかに収めておくのがいいと思います。
」の最後の括りのところがすんなりと
する。

 

 

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