秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

秀吉は知ってか知らずか…

2011-04-13 | 古代史のミステリー
大阪に現存する最古の青銅製狛犬だそうです。
中央区淡路町4にある、厄除けと縁結びの御霊神社にあります。
たまたま訪れた時、本殿で結婚式が挙げられていました。

御霊神社のサイトには青銅狛犬元和元年(1615)作となってます。
1615年って大阪夏の陣ですね。
ということは誰が寄進したんだろう?

御堂筋を淀屋橋から歩き始めて、大阪ガスビル前でロダンの彫刻を撮影。
すぐ隣のビルは壊されてブルドーザーとかが整地中だった。

御堂筋沿いのビルがなかったので、一筋入った所にある鳥居が目に留まった。


拝んでいきなさいよ~って呼び止められた気がした。
約束の時間まであまり余裕がなかったけれど、
そのまま立ち去りがたい雰囲気があり吸い込まれるように鳥居をくぐりました。


祭神は
* 天照大神荒魂 (瀬織津比売神)
* 津布良彦神 (旧攝津国津村郷の産土神)
* 津布良媛神 (旧攝津国津村郷の産土神)
* 応神天皇 (広幡八幡大神)
* 源正霊神 (鎌倉権五郎景政公霊)

文献上の初見は「文徳実録」850年文徳天皇の即位した年にあたります。
創建は4世紀後半から5世紀にかけて栄えた河内王朝にまで遡るとの説もあります。

古来、瀬織津比売神、津布良彦神、津布良媛神を祭り圓神祠(つぶらしんし)と称していたようです。

平安時代になって、生国魂(いくたま)神社や坐摩(いかすり)神社同様、
八十嶋祭の祭場のひとつでした。

八十嶋祭に向う勅使が京都を発つ日に、天皇は麻衣で体をひと撫でし、さらに息を吹きかけます。
勅使は、その麻衣を御衣筥(みそはこ)に入れて、五隻の舟で女官と共に淀川を下り難波津の祭場に向かいます。

百済鳥に上陸し、その西に広がる円江(つぶらえ)の海岸に祭壇を設けて聖寿の万歳を祈願し、内侍が持参した天皇の御衣を何度か西の海に向かって打ち振り穢れを祓い落とす


八十嶋祭は、鎌倉時代初めの後堀河天皇を最後に廃絶されるまで続きました。

そして月日は流れ、豊臣秀吉の時代
1594年(文禄3年)境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀、
圓江(現在の靱・うつぼ)から現在地に遷座。



20年ほど前に津本陽氏の『下天は夢か』を読んだ。
織田信長が他の武将とは大きく異なる2点が今でも印象に残ってます。

一つは天皇からもらう権威。
源頼朝も足利尊氏も征夷大将軍になって幕府を開いたが、信長はどんな官位も受けなかった。
もう一つは宗教から自由であったこと。
それゆえに一向一揆も弾圧できたし、比叡山焼き討ちも躊躇なくできた。

信長の後を継いだ秀吉が、そうした思いや信念をどれぐらい知ってから知らずか、関白の位をもらってるし、神社仏閣をたくさん移転させました。

大阪や近畿の神社仏閣の歴史を見ていると、秀吉によって移転させられたというのを時々見かけます。
生国魂神社、坐摩神社、そして御霊神社も大阪城築城のため移転させられました。

ほんとはこの御霊神社で一番気になるのは
天照大神荒魂 (瀬織津比売神)です。

全く存在すら知らなかった御霊神社、
ちょっと寄って挨拶していきなさいと呼び止められた方だと思います。
しかしちょっと難しすぎて今回は触れずにおきます。
そのうち続き書けるといいなと思います。