三条通りの東詰、猿沢池の西北角に采女神社があります。
西向きの社殿で有名で、鳥居から社殿後がみえます。
春日大社の境外末社で、先月春日大社を調べているときに知りました。
3月のウォーキングでは全く気づかなかったので、
先週猿沢の池からスタートする伊勢ウォークでしっかり写真撮ってきました。
これはよそのグループが説明受けているの図です。
私たちは素通りしただけだったので、歩きながら急いでシャッター押しました。
采女神社
奈良市樽井町15
祭神;言代主命(事代主命)であるが、一説に采女命(ウネメノミコト)
ウネメとは、天皇の後宮に仕えた地方豪族出身の女官のこと。
毎年、中秋名月の夜に
采女祭が催されます。
采女の霊を祀る祭りで、猿沢池に龍と鳳凰の形をした2そうの船が浮かべられ花扇と共に池を2周回ります。
かつての采女の出身地だったといわれる福島県郡山市から選ばれたミス采女を乗せ
幽玄な雅楽の調べの中、池を廻りながら花扇を投げる神事は、とても幻想的らしい。
そしてこの日だけ、采女神社は開かれていてお参りできます。
どうやら縁結びの神様とのこと、
このときだけ販売している糸占いというのがあり、月明かりの元で紅い糸を針に通すと願が成就するんだって。
奈良時代、平城天皇(806~09)のころ、
天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女(女官)が、猿沢の池に身を投げた。
この霊を慰める為、祀られたのが采女神社の起こりとされる。
入水した池を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を向けたと伝えられる。
実は、采女神社は福島県郡山市にもあり、別の采女伝説があります。
福島県郡山市観光協会「
安積采女の由来」
今からおよそ千余年前、奈良の都から葛城王(後の橘諸兄)という方が、地方の政情視察、監督のため、陸奥の国安積の里と呼ばれたこの地に着き、村里の状況を視察されました。
里人は王の気嫌を損じてはならないと懸命にもてなしましたが、ますます気嫌が悪くなるばかり、そこで国司は美人で評判の春姫を召し出しました。
春姫は心から王をもてなし、王の前に杯を捧げ
「安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思わなくに」(万葉集)
の歌一首を献じました。
和歌にすぐれた王はことのほか喜ばれ、春姫を帝の”采女”として召し出すよう申し渡しました。
このため里を離れることとなった春姫は、悲嘆にくれましたが、里人の窮状を救うためとあきらめ、王とともに都にのぼりました。
ある日、猿沢の池のほとりで月見の宴が開かれたとき、なつかしい里への思いがつのり、春姫は宴席を離れ、柳の木に衣を着せかけ、池に身を投げたように見せかけて、一路安積の里をめざし逃げ帰りました。
ようやくの思いで里にたどり着いた春姫は、都からの後難を恐れた里人の冷やかなまなざしと、困惑した顔に生きる望みも失い、山の井の清水に身を投げこの世を果てたという。
采女伝説など共通点があることから奈良市と福島県郡山市は姉妹都市だそうです。
猿沢池はもと興福寺の放生池として、奈良時代天平21年(749年)人工的に造成されました。
放生池とは、仏教の不殺生の思想に基づいて捕らえられた魚類を放つための池であり、
かつては多くの寺がこのような池を造っていました。
「澄まず濁らず出ず入らず 蛙はわかず藻は生えず 魚が七分に水三分」
流失する川、流入する川もないのに常に一定の水量を保っていて
不思議な池には、不思議伝説が残されています。
むかしむかし、猿沢池には、善達竜王という王様のような竜がすんでいました。
自分が住処にしているこの池にある女が身を投げました。
天皇の寵愛が薄れたことを悲観して死を選んだ采女だった。
(ウネメとは、天皇の後宮に仕えた地方豪族出身の女官)
それを嫌った竜王は、春日の香山(こうぜん)に移動したところ、
今度は死体をこの山に捨てにくる人がいたので
またまたイヤになって逃げ出し“室生の龍穴”まで移って行ったという話です。
祭神;言代主命(事代主命)であるが、一説に采女命(ウネメノミコト)
これまた、不思議な話です。
事代主神とは、大国主神の子どもで、出雲国譲りで最後の決定をしたことになってます。
美保で魚釣りしてて、乗っていた舟をひっくり返し藻屑と消えました…。
何で?
ものすごく気になったので検索を続けて発見しました。
采女神社の社が裏を向いているのは、
もともとある屋敷の北東の隅に事代主命をお祭りしていたものだった。
「元要記」によると、弘仁年間(810~824)、興福寺南円堂鎮檀の時、
人夫のなかの
青衣の女人が池の方に逃げ去って行方不明になった。
藤原久嗣の八男良世が西向きの社を建立、興福寺興南院の快祐が勧請したと伝える。
何で、またここで青衣の女人が登場するのでしょう…?
東大寺修二会の青衣女人→
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