今回のツアーのおすすめポイント3つは
【神倉神社】60mの絶壁の上に鎮座。
ご神体「ゴトビキ岩」は、熊野権現が最初に降臨したと伝わる巨岩。
【玉置神社】霊峰・玉置山に鎮座し、境内には巨杉が立ち並びます。
【花の窟神社】イザナミノミコトの墓所と記され、日本最古の神社といわれます。
いつも書いてますけど、世界遺産めぐりのひとつが神社仏閣墓参りに教会。
紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に認定されて丸10年の周年事業が7/7に行われていました。
そのなかでもマニアックな神社ばっかりめぐる旅でした。
いつか行きたいと思われてる方もおられると思いますので、ちょっと詳しくレポートしておきます。
この旅から新しいコンパクトデジカメを使いました。
超簡単ながらもどんな風に写っているのか楽しみでした。
ここからの画像は、CASIO EXILIM EX-Z770
プレミアムオートの3Mで軽め設定で撮影したものを、
さらにブログアップのためサイズ560x420と軽くしてあります。
帰るときに撮影した画像なので、救急車や消防車が写っています。
山の左に黄色い○で印した地点がご神体「ゴトビキ岩」です。
肉眼ではズームしなくてもちゃんと見えてました。
権現山(神倉山)とは神が権(かり)に現れる山という意味
両部鳥居で、神仏混淆の神社に多く見られるそうです。
ここからは登るのに精一杯で写真撮影どころではありません。
やっと最後の鳥居に到着。
そして帰りはもっと怖い。
Wikiページによりますと
神倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)は和歌山県新宮市の神社。
熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社。
境内地は国の史跡「熊野三山」の一部、および世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
み熊野ネット より部分的に引用させてもらいます。
自然石を組み合わせて積み重ねた急峻な石段は「
鎌倉積み」といいます。
建久4年(1193年)に
源頼朝が寄進したものと伝わる鎌倉時代の貴重な遺物です。
石段は538段ありますが、急なところは上り口から中の地蔵までの200段まで、後は緩やかになります。
ご神体のゴトビキとは熊野地方での方言でヒキガエルのこと。
最も大きな巨岩の形がヒキガエルに似ているところから付けられたそうです。
ゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸の破片が発掘されていて
おそらく縄文時代の昔から、崇拝されていた場所であったと考えられるようです。
毎年2月6日夜に行われる神倉神社の例大祭「
お燈祭(おとうまつり)」は、
勇壮な火祭として知られ、和歌山県の無形民族文化財に指定されています。
白装束の男たちがあの急勾配の石段を火のついた松明を持って駈け降る荒々しい男の祭です。
この日だけは神倉山は女人禁制になります。
熊野は山岳宗教の中心地のひとつでありながら、
女人禁制をとらず女性の参詣を積極的に受け入れました。
当時、不浄とされていた女性の生理でさえも、熊野権現はいっこうに気にしないのだ、とさえ言われていました。
蟻の熊野詣と言われるほど賑わったのに、室町時代になると院や貴族の参詣もなくなり熊野三山は経済的に苦境に。
そこで、より多くの参詣者を集め、より多くの人々からの喜捨を集めるために、熊野信仰をより広めることが必要となりました。
戦国時代の頃に熊野信仰の拡大のために大きな役割を果たしたのが、
熊野比丘尼と呼ばれた僧形の女性芸能者たちです。
彼女たちは熊野三山に属し、熊野信仰を広めながら各地を勧進(社殿の修理などのために寄附を集めること)して歩きました。
彼女たちは、
熊野牛王宝印(烏牛王ともいう)を売り、『
観心十界曼荼羅(地獄極楽図とも熊野の絵ともいう)』や『
那智参詣曼荼羅』などを絵解きし、熊野の聖なる土地としてのイメージを人々の心に浸透させていきました。
なるほど~
こうして熊野牛王宝印が誓約を書く証紙として日本各地に広がっていったのですね。
2014-04-20 熊野もうで餅と熊野牛王