秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
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閉業のお知らせ

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大枝の東照大権現と薬師信仰

2018-10-20 | 世情雑感


大枝神社の本殿とお稲荷さんの間に小さな社があり、東照大権現と貼り紙あります。
いつも順番に3箇所でご挨拶してますが、なんでここに東照大権現が祀られてるんだろうと思ってた。

2017/7/1 夏越大払えで黒猫にあうの記事で位置関係わかります。





今朝の新聞で

先の台風21号で高潮が20-25キロも遡ってたって。

この地図の淀川という表記矢印あたり、川の流れが北東から急に北に変わってるのが分かると思います。
実際に堤防歩くとカキーンと曲がってるのに驚いて記事残したぐらいですから。

2013/1/14 とうとうと流れる淀川、実は
2014/3/8 まむ多の楠どらと茨田堤


時代は安土桃山時代、本能寺の変(1582年)
堺に滞在してたという徳川家康は、佃島の漁民の助けを借りて逃れたので、その漁民たちを江戸へ移住させて佃島。

詳しい経路は明らかになってるか確認してませんが、私の妄想。
佃の漁師たちに案内してもらって、堺から淀川の守口あたりまで船で来て上陸したんではないかと。
というのは、淀川をさかのぼる船は海からの西風を利用するも、守口の湾曲部では西風が逆風になって、船の進行を妨げます。

川を上るときは、ガタロウという人足を雇って船を岸から引っ張るんだそうです。
今の動力時代からは想像もつかない、淀川水運における難所だったのです。

昼間にそんなたいそうなことしてたら見つかります。
きっと家康一行は、守口で上陸して、大枝神社あたりで夜になるのを待って、暗闇に紛れて今の163号線を通り、交野、木津から、伊賀へ抜けたんではないかと想像します。
それとも国道25号線を通ったとなれば、天武天皇の壬申の乱の道ですから、のちの薬師信仰に繋がります。


その時に匿ってもらったお礼に金一封とか神社寄進とか、
家康公ゆかりの東照宮祠があるのでないかと。

大枝神社に東照大権現が、たとえ小さな祠と言えどもずっと祀られてるのか、その理由は淀川の湾曲にあったのではないかと思います。


前々からそう思ってて、今朝の新聞で地図見て、これは記事書きなさいという先ぶれだと。


家康は「自分の死後一周忌を過ぎてから下野日光に小さき堂を建て勧請し、関八州(日本のこと)の鎮守にせよ」と遺言したと伝わり、それが日光東照宮。

天海和尚などの働きにより、後水尾天皇の勅許によって朝廷より「東照大権現」の名を賜わり、東照宮に祭祀された。
徳川家康は薬師如来の仮の姿が日本に現れたものとし、神仏習合の形をとり神社神道形式で祭祀が行われる。

本地(本来の姿)は、東方浄瑠璃世界の教主・薬師瑠璃光如来であるとしたものです。

大名に東照宮を建立することを半ば強制し、全国の五百社を超える東照宮が作られたそうだ。
そのときに、守口の大枝にも?

その後明治維新、第二次世界大戦などを経て、日本の国体は「東照大権現」によって護られなかったのか?
それでも、町の小さな神社の境内社として今なお残ってるという現実。



少し前から薬師信仰について調べてて、
東照大権現に繋がり、薬師信仰は、薬師寺や国分寺建立の天武天皇の時代へと繋がってく。

ココまでくるともう手に負えなくなって、唐突にこの項を終えることにします。



今日の午前中に環境調整の面接があって、約束の時間までに大枝神社へ寄って写真撮ろうとした。

すると、なんと、ダンジリが運搬車に乗せられるとこに遭遇。





大枝の地車も11年を過ぎてあちこち傷みました。
半年間かけて解体補修され洗いにかけられるんだそうです。
お墓や仏壇みたいに御しょうねん抜いて…と伺いました。

今晩またもや、お疲れさん会の宴会
呼んでもらえて、うれしいけど…