秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
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チャーミーが上陸したみなべ、思い出した鹿島神社奉納花火

2018-10-03 | 世情雑感


9月30日(日)20時頃、和歌山県田辺市付近に上陸した台風24号チャーミー。
中部関東地方に暴風被害を残し、いまなお停電してる地域ありとのこと、お見舞い申し上げます。



関東地方を通過してたであろう最中、めねふねさんが風がうるさくてとコメントくださってます。
そしてみなべに上陸したと教えてくださった。

南部、今は「みなべ」とひらがな表記してるようです。
南部の南高梅の梅干しは昔から有名ですが、昭和の終わり頃その南部の国民宿舎近くに温泉付きマンションが建ち、知り合いからすすめられ5.6年借りてました。
賃料はおじいちゃんが払ってたので、いつからいつまでか正確にはわからないけど、うちの子たちが幼稚園時代、長女が小学校1、2年ぐらいまでかと。



Yahoo天気図で台風進路が表記される期間は、その進路図をYahoo地図で見ることができます。
左上の地図拡大縮小スケールは、右上のバージョンを変えるボタンをいじってると、時々拡大率上がることがあります。
そのタイミングでズームアップして、台風進路を見るのは実に興味深いものがあります。

あの9/30夕刻、室戸岬東側を通過して紀伊水道に入り、そのま北東に進めば、日高とか有田あたりに上陸かと思われた。
ところが急に台風24号チャーミーは進路調節して、上陸前の助走せんばかりに少し南寄りに進路変えたのです。
そして田辺市付近上陸となったのでした。


めねふねさんブログで、 チャーミーと守屋山 という記事に
>台風チャーミーがもし猿田彦台風なら、…
ただこの台風、「道案内」の意味はたしかにもってたと思う。
>チャーミーが上陸したのは、和歌山県田辺市の南部(みなべ)。
この南部って、南海トラフのことじゃなかろうね。


気になりますでしょ。
でつらつら思い出したところ、30年以上前の夏、みなべで滞在してた時に海岸で奉納花火大会がありました。
マンション3階のベランダからよく見えたのです。
花火一つづつ上げる前に、太鼓音に続いて「〇〇さんより奉納10万円」のように拡声器の声が聞こえて、ど~んと上がるのです。

たしか8月1日の夜でした。
世界に誇るPL花火大会を見て育ったものにとって、田舎のほのぼのとした奉納花火大会はピンとキリ。
しょぼいっちゃぁしょぼいんだけど、神様への奉納花火が村民の思いと相まって記憶に残るものでした。

当時は神社仏閣興味なかったので、その神社に参拝することもなかったし、神社の名前すら確認しなった。

そしてこの度、南部 神社で検索したら、鹿島神社がヒット。
なんとあの南部湾沿岸に立つマンションから目の前に見えた島、鹿島にあった神社が内地に移されてた。


由来を見てびっくり。
当神社の現境内は、明治初年までは南部湾の鹿島に鎮座する元本社の遙拝所としてこの所より常に遙拝したもので、本社の創始は年月不詳であるが、大宝元(707)年以後、太上天皇・文武天皇・持統天皇の紀伊国行幸の際、当地方をうたわれた13首の御製の中に当時、鹿島大明神として鎮座されていたことが明らかで、尚それ以前に創始されていたことは明瞭である。
百数十年の昔関西地方を襲った宝永・嘉永両度の大地震大津浪の際、鹿島のお蔭により南部郷一帯は被害僅少であったことから、鹿島明神の加護厚きことをもって報恩感謝の現れとして、5月3日の明神祭と8月1日の献火の花火祭が毎年益々盛大に挙行され賑わっている。
田辺藩主安藤家の武運の守護神として累代崇敬厚く、元和年間に藩祖直次公が三河の国より田辺に入城の際、海路旅に用いた軍船明神丸及び陸路の行列に用いた諸具の総てを当神社に奉納されて以来、10月第3日曜日の秋祭の渡御に使用し、特に奴行列は紀南でめずらしく見物客の賑わいを添えている。
(当神社宝物)安藤帯刀公の関ヶ原の戦いに着用の黄金造りの太刀と陣羽織が奉納されており、社宝としている。


伝説の神の島 鹿島によれば
江戸のむかし、八代将軍徳川吉宗が紀州藩氏の頃、日本最大級の地震「宝永の大地震」が日本列島を襲いました。続いて太平洋沿岸では引き潮がおこり、大津波で付近の村々は寛大な被害を蒙りました。当時の記録では鹿島から巨大な鬼火が現れ、島が大津波を二つに分け、みなべの郷を守ったことから翌年、神恩感謝の花火を村人が奉納し、毎年8月1日に盛大に行われる鹿島奉納花火祭へと引き継がれています。


みなべ観光協会の説明では
みなべの沖合に浮かぶ「鹿島」に鎮座する鹿島大明神は、奈良時代以前に常陸の国(茨城県)の鹿島神宮から勧請したと伝えられ、宝永と嘉永の大地震の津波からみなべの街を救ったといわれ、島全体が信仰の対象とさせてきました。

ぐるわかのサイト」では
「みなべ沖にある鹿島の南島にあった鹿島神社は明治42年に天照皇大神(おいせさん)、須佐之男命(ごりょうさん)と合祀され、現在の場所に移動しました。
万葉集の中で、大宝元年(701年)に持統上皇、文武天皇の一行が現在の白浜湯崎温泉に行幸を行われた折、13首の歌の中には鹿島大明神として鹿島に鎮座していたことが伝えられています。
毎年8月1日におこなわれる鹿島神社奉納花火祭は、その昔、鹿島から光の玉が現れ、大地震の津波災害から村を救ったことに感謝を捧げる為に宝永5年から始まったとされています。約1,200発の花火がみなべの夜空を彩ります。また10月第3日曜日には秋祭りも開催されます。」



チャーミーは、みなべ上陸後、龍神温泉の上を通過し奈良県へ。
各地のいろんな山々を通過してて、これがまた調べると面白い。



山上ヶ岳(標高1719m)を通過。
奈良県中央部、吉野郡天川村にある大峰山脈北部の主峰。
大峰信仰の根本道場の中心
歴史的には「大峰山」は、大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ)から熊野までの峰々の呼び名であった
対して小篠から山上ヶ岳を含み尾根沿いに吉野川河岸までを金峰山という


高見山(標高 1248m)南麓を通過
奈良県吉野郡東吉野村と三重県松阪市(旧飯南郡飯高町)との境界にある山
山地の南麓は断層地形を呈し中央構造線が通る
山頂に高角神社
その構造谷を東へ櫛田川,西へ吉野川(紀ノ川)が流れる



能褒野(のぼの)
『日本書紀』では能褒野、ヤマトタケルを「日本武尊」
『古事記』では能煩野、「倭建命」
ヤマトタケルが東征の帰途、伊吹山の荒ぶる神との戦いに敗れ、傷を負って故郷大和国へ帰る途中この地で没したという
古事記、日本書紀のこの記述に基づき、明治時代1879年内務省はこの王塚と呼ばれる古墳 (史跡) を日本武尊の墓と指定し能褒野御陵と名づけた。
95年隣接して武尊をまつる能褒野神社も創設された。
鈴鹿市にある白鳥(しらとり)塚古墳(県史跡)も尊の御陵と伝えられる



本宮山(ほんぐうさん 標高293m)
愛知県犬山市南部に位置し、別名「尾張本宮山」
尾張富士(275m)と相対し、背比べをしたという故事に由来する石上(いしあげ)祭が有名
西側の山麓には大縣神社があり、山頂付近にはその奥宮


この後、長野県に入り、めねふねさんがもっとも気になってんのが「守屋山
>諏訪大社上社のご神体山として知られるが、じつは諏訪大社の神域は北麓で、守屋山東峰には守屋神社奥宮の石祠がある。
里宮は登山口にある物部守屋神社である。
守屋山は、北側と東側では意味がちがう。
台風24号チャーミーが通ったのは、諏訪大社ではなく物部守屋の側だ。



気になる~
長くなるのでここで切って、後半に続きます。