秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

縁日と開帳、野崎観音の御伝心

2023-05-04 | おでかけ・近畿
野崎詣りは屋形船でまいろ♪
今は船で行けません。

誰に教えてもらったでもないのに唄える野崎小唄。
東海林太郎が歌いヒットしたのが1935(昭和10)年で、年配者は全国的に知ってる人多いようです。

昔は天満橋の八軒屋浜から船が出てたらしい。
宝永の大和川付け替え以来、寝屋川や水路使って。
いつ廃止になったか不明ですが、明治に鉄道敷かれてだんだん衰退かな。


JR学研都市線(旧名は片町線)野崎駅から600〜700m、徒歩10分程。
参道両側に隙間なく露店が並びますから賑わいによってはもっと時間かかります。


やっと飯盛山山麓の山門までの急峻な階段が始まる。


200段はあると聞き覚悟してたので思ってたよりマシだった。



山門入ると消防士さん達が大勢待機してらして、
目の前の鎮守社の南條神社で、整列して記念撮影でしょうか。




さらに階段上がると本堂です。





野崎詣りの5/1〜8の間、十一面観世音像が開扉されてます。

観音さんの手から五色の綱が伸び、そこに結願の願いを結びつけます。
御伝心(頼みの綱)と書かれてました。



野崎詣り(のざきまいり)は元禄時代から伝わる行事で、
毎年5月初めの期間ご本尊の十一面観世音像が開帳されます。
正しくは無縁経法要いい、
生きとし生けるものすべてに感謝のお経を捧げる伝統行事です。



かつては舟で行く人と、陸で行く人とで罵り合って競り勝てば一年の幸を得られたという俗信があり、この時期になると周囲はとても賑わっていたと伝わっています。








神奈備さんのサイトより一部引用させてもらいます。

天平勝宝年間(749~757)大仏開眼のために来朝したバラモン僧正が

「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いたハナラによく似ている」

と行基菩薩に言ったので、観音像を刻み、この地に安置したのが、この寺のはじまりと伝えられる。

藤原氏が権勢を誇った平安末期、淀川右岸に住む江口の君が、長の病を観音様に治して頂いたお礼にお寺を再興した。

江口の君とは江口にたむろしていた遊女の長者(統率者)を言う。

永仁年間(1292~1298)入蓮僧正が秦氏の協力を得て大修復をしたが、

永禄の乱(1569)によって寺の殆どが焼失し本尊の観音像だけが残った。

元和二年(1616)青厳和尚が復興し、元禄宝永(1688~1710)の頃に「のざきまいり」が盛んになりお寺も栄え現在にいたっている。

江口と野崎とは水路でつながっていて、江口の遊女は良い客がつくようにお詣りに来ていたのだろう。

満月(もちづき)の藤原道長に愛でされた小観音と言う遊女がいて、後に観音として祀られたと滝川政次郎『遊行女婦・遊女・傀儡女』で述べている。







「お染久松」悲恋物語の舞台としても知られ、本堂の後方に2人の墓が残っています。

宝永5年(1708)に起こった大坂 瓦屋橋 かわらやばし 油屋の娘お染と 丁稚 でっち 久松の心中事件を題材にした浄瑠璃・歌舞伎などの通称。



「の ざ き ま い り 」 に 見 る 庶 民 参 詣 の 娯 楽 性